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マツモトコージ苑
     2007年  (最終更新日 : 2018/11/15)
視覚障害柔道選手たちの闘い [全画像を表示]

視覚障害柔道選手たちの闘い (2008/03/08) (1)

赤塚さん.jpg
初戦を一本勝ちした赤塚選手(奥側)
 第三回IBSA(国際視覚障害者スポーツ協会)世界選手権大会が、〇七年七月二十九日から八月八日までサンパウロ市内などで開催され、世界六十三か国から約千二百人の選手が参加し、熱戦を繰り広げた。選手四十七人を含む八十六人を派遣した日本選手団は、陸上、サッカー、ゴールボール、柔道の四種目に出場。特に柔道では金メダルをはじめ、四人の選手が上位入賞を果たし、来年八月に開催される北京パラリンピックへの出場権を獲得した。視覚障害というハンディを持ちながら、今大会に情熱を燃やした四人の柔道選手に取材した。
 今大会、女子四八キロ級に出場し、初戦を一本勝ちしながら二回戦で中国のフア・ピン・グオ選手に惜しくも敗れ、七位の結果に終った赤塚正美さん(四段、三五、東京都出身)。未熟児網膜症により、右目の視力はゼロ、左目は0・01しかない。日常生活では長年の経験により「勘を頼りに動いている」ことも多く、視界が狭いのが実情だ。
 小・中・高校までは一般の学校で学んだが、体育の授業はいつも見学で「運動は大嫌いだった」という。「進学に影響するから」と周りから勧められたマット運動を行ったことで、スポーツの持つ楽しさを少しずつ味わった。
 親戚がやっていたこともあり、九二年の二十歳の時に自身も軽い気持ちで始めた柔道だったが、翌九三年、日本国内の講道館で開かれた視覚障害者全日本柔道大会に四八キロ級に出場して、いきなり優勝した。このことが赤塚さんに大きな自信を植え付けた。
 その後も九四年の北京フェスピック(極東南太平洋アジア大会)で三位の好成績、〇三年の第二回IBSAカナダ大会に出場、〇六年のクアラルンプール・フェスピックで二位に入るなど、国際大会でも実力を示してきた。
 今大会では、「外国人選手との実力差が大きかった」と振り返るが、相手選手の「組み手」が逆だったりと事前に得ていた情報が違っていたこともあり、苦戦を強いられた。
 今大会では北京パラリンピックの出場枠を獲得できなかったものの、今年十一月に日本国内で予定されている最終選考会で好結果を出せば、同クラスの代表選手として選ばれるチャンスもまだある。
 同じ日本柔道選手からは渾名(あだな)で「師範、師範」と親しみを込めて呼ばれており、実際に日本国内の道場では、子供たちを相手に柔道の指導も行っているという。
 「将来的には海外に住んで、障害者女子柔道の指導者として教えていきたい」との考えを示す赤塚さん。物静かな振る舞いの中にも、熱い思いを見せていた。

(2)

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思わぬ初戦敗退した松本さん(左側)
 柔道最年長の松本義和さん(三段、四五、大阪府出身)は今大会、百キロ級で思わぬ初戦敗退を喫した。相手は過去のパラリンピックで優勝しているブラジルのシルバ・アントニオ選手。松本さんは、これまでの大会の戦績から敗者復活戦に出場するはずだったが、シルバ選手が二回戦で敗退し、その対戦相手が優勝するなど上位入賞への望みを失った。
 松本さんは中学時代、サッカーの試合でボールが目を直撃し、緑内障に。八二年、二十歳で失明し、翌八三年に盲学校で柔道を始めた。元々子供の頃から身体を動かすことが好きで、失明したことを克服するためにさらに身体を鍛えるようになった。
 現在、大阪市内に自らのマッサージ治療院を開業し、今年で二十年が経つ。九八年の第一回IBSAスペイン大会で銀メダル、翌九九年タイ・フェスピック大会でも銀メダルを獲得。二〇〇〇年シドニー・パラリンピックでは銅メダルと、国際大会での輝かしい戦績を挙げてきた。
 「(一回戦が)アカンかっても敗者復活戦で上がっていこうと思ってた。まさか、自分の対戦相手が負けるとは思ってなかった」と松本さんは予想外の展開を振り返る。 「国内大会で負けたら(柔道を)辞めようと思ってるけど、今まで国内では(他の選手に)抜かれてない。(弱視のように)少しでも眼が見えてたら辞めても指導者になれるけど、私ら全盲の場合は現役が終ったら、それで終り」と松本さんは、視覚障害者柔道にとって弱視と全盲の大きな違いを挙げる。
 「海外に行きたいというより、色んな経験をしたいと思ってる。十一月の(国内)大会で勝って、金メダルとまではいかんけど、北京でメダルを狙いたい」と意欲を見せた。
   ◎   ◎
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念願の金メダルを獲得した加藤さん(上側)
 今大会、男子八一キロ級で優勝し、日本選手団の中で唯一金メダルを獲得した加藤裕司さん(四段、二八、埼玉県出身)は、「良い結果にはなりましたが、我慢の柔道でした」と苦しかった胸の内を打ち明けた。
 加藤さんは生まれつきの緑内障で弱視だったが、中学の三年間で徐々に視力が落ち、失明。中学時代の友人の誘いで柔道部に入り、卒業後は今回の日本選手団団長を務めた牛窪多喜男氏が経営する「牛窪道場」へと通い始めた。
 九八年の第一回IBSAスペイン大会で五位、〇二年ローマ国際大会では初戦敗退、〇三年第二回IBSAカナダ大会で七位と当初は戦績も奮わなかった。それまで九〇キロ級で戦っていた体重を落とし、〇四年アテネ・パラリンピック大会からは現在の八一キロ級で対戦、二位に入賞。昨年のフランス国際大会で三位となり、今回、念願の金メダルは獲ることができた。
 「百回でも二百回でも決まるまで内股でいこうと思いました」との言葉通り、これまで加藤さんは得意技の内股に磨きをかけ、道場で週三回の稽古以外に筋力トレーニングを欠かさず行ってきた。対戦中、相手を引き込む腕力には外国人も圧倒されていた。
 「相手を引き込まないと、内股をかけることができないんですよ」
 淡々と語る加藤さんだが、筋骨隆々の上半身が練習量の激しさを物語る。
 「毎回、勝ちたくて練習していますが、今まで強引に相手に組みに行って負けていました。今回は焦らず、『負けなければ上に上がれる』と思ってやってきました。三、四分組んでいると自分も疲れますが、相手も相当に疲れています。そこを狙いました」と加藤さんは我慢で得た優勝を、はにかみながらも充実した表情で振り返った。

(3)

 「近年の国際大会は競技性に力を入れすぎて、それが却って嫌なところもあるんですよ」―。
 こう語るのは、百キロ超級に出場した宮内栄司さん(初段、三四、徳島県出身)。二歳で麻疹(はしか)に罹り、両眼を摘出する必要性に迫られ全盲となり、現在は義眼を入れている。幼い頃から相撲など格闘技系が好きで、四歳で全寮制の保育学校に入り、「毎日、三時間くらい相撲することはザラだった」という。
 今大会の柔道監督である柿谷清氏(徳島県出身)のもとで、中学二年生の時から本格的に柔道を開始。腕力が特に強く、半年後に出場した初めての一般国内大会で四位に入賞した。
 九二年のバルセロナ・パラリンピックに七一キロ級で出場し、銅メダルを獲得したが、その後はマッサージ治療院開業などのため三年間、柔道を止めていた。
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試合直後に相手選手を称える宮内選手(左)
 九八年の第一回IBSAスペイン大会から現在の百キロ超級に変更し、三位。九九年バンコク・フェスピック(金メダル)、二〇〇〇年シドニー・パラリンピック(銅メダル)、〇二年プサン・フェスピック(金メダル)と常に国際大会での上位入賞を果たしてきた。 しかし、〇四年のアテネ・パラリンピック以降は結果的には低迷し、今大会でも初戦をキューバのジメネス・ヤンガリニー選手に締め技で一本負け、上位への希望を託した敗者復活戦でも勝利を飾れなかった。
 「昔は気が荒く、試合中でもケンカのようでしたが、一旦柔道を止めた時くらいから、そうした精神的なものがなくなってきたんですよ。周りが強くなってきたのと、自分が弱くなってきたのもありますけど」
 また、国際障害者大会そのものの姿勢も変化してきた。外国の選手によっては、大会で上位入賞を果たすと、その国の政府などから報奨金が出るケースも多くなっているという。
 「バルセロナの時は、プレゼント交換など海外の選手との交流も多かったんですが、外国の選手は生活がかかっているから試合前はピリピリして、以前のような和やかな雰囲気も無くなってきましたね」と宮内さん。「競技にしても全盲の人と、眼が少しだけ悪い人もごっちゃ(ごちゃ混ぜ)で、努力して克服できたものが無くなってきてるんですよ」と現状を吐露する。
 弱視の程度にもよるが、少しでも眼が見えれば、自分で技を覚えることができる。全盲の場合は、コーチや監督が選手にゼロから身体で教え込む必要がある。同じ視覚障害者柔道選手と言っても、全盲にとっては大きなハンディになる訳だ。
 「それだけに全盲の加藤君(男子八一キロ級)が今大会で金メダルを獲ったというのは、本当に価値のあることなんですよ。全盲の人が(国際大会で)優勝したのはバルセロナ大会(九二年)以降、ほとんど無かったんとちゃうかな」と宮内さんは同じ全盲として、その功績を大きく評価する。 
 「柔道をやってる以上、当然メダルを獲れたらとは思いますけど、自分にとっては競技性というよりも国際大会に行けて、その国の雰囲気を楽しめたらいいというのもあるんですよ。そのために一番力入れているのは(国際大会出場選考となる)国内大会なんですけどね」と宮内さんは、屈託ない笑顔を見せていた。(おわり、2007年8月サンパウロ新聞掲載)
 
 
 


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