親子二代の写真人生、ロンドリーナの安中さん (2008/08/19)
パラナ州ロンドリーナ市内で55年間にわたって写真館を経営してきた人がいる。安中裕(やすなか・ゆたか)さん(81、北海道出身)は、親から受け継いだ写真技術を駆使し、仕事とは別にロンドリーナの街並みや風景に目を向けてきた。その作品群の中から抜粋したものが市の協力を得て、06年に写真集として出版された。しかし、デジタル化の波が台頭する中、後継者もいないままに惜しまれながら07年12月末で歴史ある写真館を閉じた。親子2代に渡って写真に情熱を燃やした安中家の活動に焦点を当てる。
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| ブラジル初期の頃の安中末次郎さん 馬に跨って写真撮影に |
| 父親の末次郎さん(故人)は17歳の時、札幌で「阿部義一」という日本人に弟子入りし、写真技術を学んだ。5年間の助手生活を経た後、独立。札幌に自身の写真館を開設した。しかし、皮肉なことに師匠の店よりも流行ったことが、末次郎さんの心をかえって苦しめた。 「このままではお世話になった師匠の店が潰れてしまう」と危惧した末次郎さんは、知り合いのつてを頼ってブラジルに行くことを決心。先に渡伯していた同郷の外山啓七氏の呼び寄せにより、シズ夫人と長男の裕さんの3人で1927年12月下旬、「まにら丸」で神戸港を出航。翌28年2月にサントス港に到着している。裕さんは当時まだ1歳だった。 安中家族は、サンパウロ州レジストロ近くのイグアッペ植民地に入植。末次郎さんは外山氏の薦めで同地に写真館を開業し、イグアッペ植民地の「創立20周年記念記録写真帳」を制作するなど貢献した。 当時ブラジルで印刷・出版できない写真帳を自ら日本に一時帰国して制作するなど、仕事に賭ける思いは特に大きかった。 35年には綿景気で活況を呈していたバストスに移転。「バストス10年史(写真集)」などの制作も手がけている。 「バストス10年史」も末次郎さんが各地区に分かれた日本人家族を1軒1軒訪問し、当時の大型カメラで丁寧に撮影した貴重な歴史史料だ。サンパウロの移民史料館に保管されており、地元バストスでも個人で所有している人もいるが、現在その数は極めて少ない。 「何事にも厳しい父だったですよ。当時は写真を撮りに行くのも馬に跨って、写真機とともに鉄砲も担いで行ってね」と7歳で写真の技術を習いだした裕さんは、父の仕事ぶりを今も誇りに思っている。 バストスには4年間住んだが、その頃、伯国政府が外国語禁止令を発令。「このままでは子供たちに日本語を教えることができない」と憂慮した末次郎さんは日本に戻ることを決意。39年、家族で日本に引き揚げた。 北海道の美唄(びばい)で料理店を経営していた伯母(シズ夫人の姉)が安中家族に資金援助をし、末次郎さんは同地で写真館を開くことができた。 13歳だった裕さんは日本の学校に編入したが、「回りは皆、年下ばかり。学校に行くのが嫌だった」と当時を振り返る。 さらに戦時色が濃くなりだしていた時代だった。
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| 45年、入隊当時の裕さん(上から2列、左から2人目) |
| 札幌の旧制中学高等科を18歳で卒業した裕さんは44年、父から受けた写真技術の腕を生かし、町立病院でレントゲン写真の技師として働いた。 同病院の主任医師が衛生兵軍曹の経験があったことや父親から薦められたこともあり、裕さんは衛生兵として志願した。45年3月、札幌25連隊に入隊し、樺太に出征。上敷香(かみしすか)の陸軍病院に派遣された。 裕さんが書いた手記などによると、同地でのタコ壷掘り、歩兵訓練の後、陸軍病院内では衛生教育や治療訓練を受けたという。同年8月、ソ連軍の宣戦布告により、豊原(とよはら)の野戦病院行きの指令を受け、8月15日の朝に到着。同地で思いがけず玉音放送を聞いた。 「戦争が終ったという何とも言えない虚脱感に襲われた」裕さんたちは皆、軍隊手帳を焼き捨て、軍医長が営倉から持ってきた酒や煙草を飲んで酔いしれるしかなかった。 その1週間後、終戦になっていたにもかかわらず、ソ連機2機が焼夷弾を落下して爆撃、豊原駅前の広場は死傷者が続出。裕さんたちは目の前で起った惨劇に怒りながらも、病人の看護にあたるしかなかった。 10月下旬、「日本に引揚げることができる」と喜んで樺太の大泊港から乗船した船はシベリアに向い、裕さんは約2000人の日本兵とともに抑留。収容所に連行された。 スープとパンが朝夕2回だけという貧しい食事しか配給されない中、1月には零下40度にもなる極寒の地の生活では、体力の無い者から命を落としていった。 その中でも特に大変だったのが「鉄道の枕木敷き」作業だったという。 「満足な食事もできない中で強制労働が続き、骨と皮だけの人間の肩に担いだ枕木が重く食い込んでくる。朝起きて隣の人に『おい』と言っても返事がないので触れてみると、もう固くなって死んでいた」 そうした生活が約3年間続いた48年10月下旬、ナホトカ港から帰還。舞鶴港を経て北海道美唄へと、ようやくの思いで故郷に戻ることができた。 「日本に帰りたい一心で生き抜き、何年か振りで食べた『おにぎり』の味は今でも忘れられない」 その後、偶然にも戦前に豊原に住んでいたという同郷の潤子さん(05年7月、73歳で死去)と知り合い、51年に結婚。裕さんは生き延びたことで、幸せをつかむことができた。 戦後の不景気もあり、家族からはブラジルに行きたいとの声が高まった。裕さんの妹たちはブラジル生れで郷愁があり、当時パラナ州マリアルバに居た伯父・安中平太郎氏の呼び寄せにより再渡航することに。51年12月、父・末次郎さんを家長として11人という大家族でオランダ船の「ルイス号」に乗船。横浜港を出航した。 マリアルバで半年ほどコーヒー農園を手伝った裕さんは52年10月、末次郎さんとともに、ドイツ系ブラジル人がロンドリーナで経営していた写真館「フォト・エストレーラ」を手放すという話しを聞いて、購入。再び、ブラジルの地で親子揃って写真館を営むことになった。
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安中父子が手に入れた写真館「フォト・エストレーラ」は52年の購入当時、ロンドリーナ市内のマット・グロッソ街にあった。その後、63年頃にマラニョン街に移転し、07年の12月末まで55年間にわたって開業されてきた。 裕さんはその間、仕事と並行してロンドリーナの街並みを精力的に写してきた。一つのきっかけは農場の撮影を依頼され、テコテコ(セスナ機)に乗って空撮を行ったことだった。 「その当時、テコテコに乗って写真を撮ったというのはロンドリーナでは僕が初めてだったんじゃないかな。今では撮りたくても撮れない風景がたくさんあったね」と裕さんは、当時を振り返る。 そうした地道な貢献が認められ、06年8月、ロンドリーナ市の協力を得て「歴史を明かす 写真館フォト・エストレーラの遺産」というタイトルの写真集が発刊された。 同写真集は1930年代から70年代前後のロンドリーナの発展に焦点を当て、市内の風景や建物、カフェ生産状況など100枚近い写真を収録。ジャタイジーニョ付近だというカフェザルをはじめ、市内の旧カテドラル(大聖堂)や現在は博物館となっているバスターミナルや駅舎などが白黒写真で写しだされている。 それらに加えて巻末には、父親の末次郎さんの写真人生とともに、裕さん自らの戦争体験の話や再渡航時の写真なども掲載されている。 記者が07年12月中旬に「フォト・エストレーラ」を訪問した際、裕さんは年末で店を閉めるための準備に追われていた。無理言って取材をさせてもらったが、その写真集を見せてもらい、父の時代から続けてきたという写真への思いが伝わった。 しかし、その一方で伴侶の潤子さんが05年7月に病死し、子供たちも今どきのデジタル化の波に押され、古い写真館を引き継ぐ考えもないことを裕さんから説明された。 「5年ほど前から店を売る話はあったんだけど、いろいろあってね」と裕さん。半世紀以上も続いた店を閉めることに、寂しさを感じているようだった。 裕さんに写真館の中を見せてもらった。奥側の壁には、ドイツ系ブラジル人が写真館を所有していた時代からあったという撮影用の背景画があった。色褪せた背景画を見ながら、半世紀以上にわたって営まれてきた写真館の歴史の重さを感じた。 末次郎さんが写したイグアッペ植民地やバストス時代のガラス乾板フィルムはすでに無いという。しかし、89年に他界するまで末次郎さんは書くことが好きで、自身で「回想録」を遺している、と裕さんは話してくれた。 一つの時代が終ったが、当時の写真群が次世代の人々の心を捉えていくことだろう。(おわり・2008年1月サンパウロ新聞掲載)
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