戦後63年、ブラジル国内の回想 (2018/10/15)
移民100周年とともに戦後63年を迎えた今年(2008年)、戦争の影響によって人生を左右された日系社会の人々の回想記録を改めて掘り起こしてみたいと思う。戦後の勝ち負け抗争に揺れたコロニア。自ら「決行員」と称して皇国崇拝の気持ちから、敗戦を唱えた「認識派」を射殺した関係者をはじめ、被弾した側の遺族の証言を聞くことができた。また、沖縄戦での悲惨な状況に対して同胞救済の立場から、救援金作りを目的にブラジル国内で慈善ショーを行った「少女舞踊団」経験者の話も取材した。
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「日本人としての思いから発したもの。後悔はしていませんよ」―。 「決行員」と称して、1946年4月1日の野村忠三郎氏(当時の文教普及会事務長)と、同年6月2日の脇山甚作元陸軍大佐射殺事件に関与した山下博美さん(83、三重県出身)は、今も当時のことを覚えている。 27年12月、両親と兄姉とともに「らぷらた丸」で渡伯した山下さん。家族はモジアナ線で4年間のコーヒー農園契約を終え、サンパウロ州ピラチニンガ、ベラ・クルスなどでの農業生産活動を経て綿景気の波に乗り、日本人の多かったポンペイアの町に移り住み、雑貨商を営んだ。しかし、戦争の影響で景気が悪化し、農業生活へと逆戻り。キンターナの町へと転住し、山下さんは兄たちが従事していた農作業を手伝った。 父親は日露戦争に軍人として出兵した経験を持っていた。移民でブラジルに渡ったが、当然ながら日本人としての気持ちは強く、天皇崇拝の思想は自然な形で山下さんの中にも芽生えていった。 山下さんが19歳の時、「田舎にいても勉強などできない」との兄姉たちの勧めもあり、ツッパンで精米所を経営していた兄夫妻の世話になった。 翌45年2月には父親が亡くなり、同8月には終戦を迎えた。しかし、当時の日系社会では正確な情報が入りにくく、もとより山下さんたちにとって、敗戦を認める気持ちなどは無かった。そうした中で、一部の日本人によっては皇室のことを誹謗(ひぼう)する人間も現れたという。 「私たちにとって皇室は、日本人の精神であり、心の支えだった。その悪口を言われるのは我慢できず、許せなかった」 そうした思いを同じくする若者が自然と集まり、「何とかしなければ」との思いから、ある行動へと移すことになった。その一つが、46年4月1日に発生した野村忠三郎射殺事件だった。 野村氏は日伯新聞の編集長だったが、38年にブラジル日本人文教普及会の事務長となった。その後、45年10月に日本の外務省がスイスを経由して英文で打電した「終戦の詔勅」が日系社会に送られ、情報が錯綜する中で「敗戦」の事実を伝え、コロニアの混乱を鎮めようとする主旨の集会で詔勅を奉読したのが野村氏だった。 『百年の水流』(外山脩氏著)によると、日本の外務省から終戦の詔勅と当時の東郷茂徳外相のメッセージが日系社会に舞い込み、前海外興業株式会社ブラジル支店長だった宮腰千葉太氏の手に入ったという。 その後、当時の日系社会の指導者たち7人の署名をもとに「終戦事情伝達趣意書」が作られた。その中には、後に山下さんのグループに射殺された脇山甚作氏をはじめ、コロニアでも有名な山本喜誉司、宮坂国人などの名前も入っていた。 山下さんたちは、各グループごとに分かれ、趣意書に署名した人物を標的に「決行」することを決意した。
(2)
「決行」にあたり、サンパウロ州ツッパンから汽車に乗り、サンパウロ入りした山下さんは、小笠原という日本人夫婦の世話になっていた。 決行前日の夜、聖州奥地から同志10人が集まり、山下さんのグループ5人はそれぞれに拳銃を携帯。「目標」とする野村氏が住むジャバクアラ区のシャカラ(自宅)へと向かった。当時は拳銃など護身用として一般の農業者も所持し、「どこででも買えた」という。 明け方まで待っていた山下さんたちは、野村夫人がシャカラの戸を開けたのを見計らって家の内部に入り込んだ。夫人の悲鳴で騒ぎを聞きつけ、寝室から出てきた野村氏と思われる人物に向かって5人全員が引鉄を絞りこんだ。野村氏は即死だったが、山下さんの拳銃は不発だった。 「誰も(野村氏の)顔など分からなかったが、とにかく皆でピストルを撃った」(山下さん) 5人はバラバラになって逃走。山下さんは運良く逃げ切ったが、他の4人はその後すぐに逮捕。山下さんは、小笠原氏の世話でスザノ在住の星野という日本人のもとに匿(かくま)われた。 その2か月後、山下さんは逮捕されずに残った他のメンバー4人とともに今度は脇山甚作氏に狙いを定めた。脇山氏は元陸軍大佐で、バストス産業組合長やコチア産業組合の理事長なども務めた。 当時のブラジル語新聞には、脇山氏射殺事件は46年6月2日午後7時前に発生したと記録されている。 脇山氏が住んでいたサンパウロ市内ボスケ・ダ・サウーデ区に向かった4人は、決行後は自首する覚悟で、家の正面から堂々と扉を叩いた。脇山氏の孫たちが客人と思って扉を開け、4人は家人から応接間に通された。 脇山氏から「座れ」と促されたが、メンバーは立ったまま自決勧告書と短刀を手渡し、自決を迫った。脇山氏が「自分はもう齢だし、そんな気力はない」と言ったところ、メンバーの2人が計3発を発砲。脇山氏は絶命したという。 この時、山下さんは拳銃を持っていなかった。「家族が騒いだ時に押えるのが自分の役目だった。決して他の家族には被害がおよぶことはさせなかったが、後から思えば、あれほど大きな騒ぎになるとは思わなかった」と山下さん。実行後、4人はセントロ区の警察に自首した。 カーザ・デ・デテンソン(未決囚留置所)を経て数か所の警察を回され、DOPS(社会政治保安部)の取り調べを受けた山下さんたちは、拷問は受けなかったものの、執拗に「誰に命令されたのか」と詰問されたという。 「自分は当時21歳と若かったが、誰の命令を受けた訳でもなく、自分の信念で行動した。しかし、そのことを信じてはくれなかった」 DOPSは山下さんたちの事件を当時の「勝ち組」組織の一つだった「臣道連盟」の仕業だと疑っていたようだ。 しかし、山下さんは臣道連盟が存在する噂は伝え聞いていたものの、その詳細内容についてはほとんど知らなかった。 同年7月、山下さんは約80人の囚人と一緒にウバツーバ沖のアンシェッタ島へと護送された。
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「島流し」と聞くと、過酷な重労働を課せられ、食糧も少なく自由の無い状況を想像しがちだが、山下さんの話では、アンシェッタ島での生活は「暢気(のんき)なものだった」という。 最初の2、3か月こそ「強制労働」で、山の上に薪を取りに行き、それを運ぶ仕事を強要されたが、一日3回の食事は欠かされることがなかった。畑で野菜を栽培したり、海で魚釣りするなどの漁も自由に行え、たまには近場にピクニックに行くことさえ出来たと山下さんは回述する。 島での収監当時の写真を見せてもらったところ、日本人同士で相撲を取り、自己流のマワシを付けて写っているものもあった。 「ブラジル人の監督官がいたが、厳しく取り締まる訳でもなかった」 ほとんどの収監者が3年ほどで島から移送されたが、山下さんは持病の胃を痛めて約1年で島から出され、サンパウロ市内チラデンテスの「カーザ・デ・デテンソン(未決囚留置所)に戻された。 裁判では、31年8か月の刑を言い渡された山下さんだが、刑務所に移されることなく、何故か留置所内で病理検査の仕事をさせられることになった。 「それまで医者の仕事などしたこともなかったが、留置所のブラジル人のドトール(医者)にいろいろと教えてもらった」と山下さん。日本人としての器用さと生真面目さが、医者の心を動かしたようだが、そのことが、後の人生を支えた。 その間、54年の「ニセ朝香宮」事件で逮捕された加藤拓治も同じ留置所に入れられたことが判明した。 山下さんは、ポルトガル語ができたことから、時折、他の日本人収監者の通訳の仕事もさせられ、「ニセ宮」逮捕の情報が伝わったが、面会などはできなかった。 「自分たちにしてみれば、皇室を冒涜(ぼうとく)する者は許せなかった。傷めつけるつもりはなかったが、文句の一言でも言いたくて血が騒いだ」 予審を入れて結局15年間、拘置されていた山下さんは、1961年に仮出所の身となった。 兄たちの勧めで63年に君枝さん(10年ほど前に他界)と結婚。新聞広告に出ていた求人募集でウジミナス製鉄所に就職する話も決まりかけていた。しかし、サンパウロ事務所の担当者に、自身が仮出所の身であることを正直に話したところ、不採用になったという。 「その頃、ポンペイア日本語学校の同窓会があり、甥が誘ってくれたので行ったが、参加を拒否された。そこでケンカすれば留置所に逆戻りになるし。その時に『山下は山下の考えがあってのこと』と、かばってくれたのは日本語学校の先生だった」 また、ツッパン時代に世話になった姉から後になって聞いた話がある。戦後間もなく姉の夫も警察に拘置され、姉が差し入れを持って行こうとした際、近所の日本人女性から「そんなの、日本国旗を踏んだら、すぐに出してくれますよ」と言われたそうだ。 山下さんは、こういう話を見聞きし、「日系社会の中では自分は嫌われている」と痛感したという。仕方なく山下さんは、留置所で覚えた技術を生かし、ブラジル人医師の協力もあって臨床病理検査師として働いてきた。 現在は仕事を終え、サンパウロ市内に一人で暮らすが、週末には2人の子供が孫を連れてやってくる生活に満足している。 「自分たちは決して人を殺したいのではなかった。どこまでも日本人として、その頃の風潮が許せなかった。しかし、その気持ちを(世間は)分かってはくれなかった」 山下さんは時代の波に流されながらも、今も当時の「日本人」としての思いを持ち続けている。
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前回までは「決行」した側の話だったが、今回は被害者である脇山甚作氏の遺族で孫にあたる佐藤脇山レイ子さん(76)、脇山パウロさん(72)、加藤美代子さん(66、いずれも日系2世)の姉兄妹に当時の事件の様子などについて聞くことができた。 長女のレイ子さんによると、3人はサンパウロ州バストスのウニオン二区で生まれ、4キロほどある町の小学校まで歩いて通ったという。 第2次世界大戦が始まると伯国在住の日本人は敵国視され、祖父の脇山氏は陸軍大佐だったことから警察当局に目を付けられ、「毎週金曜日にはサンパウロのDOPS(社会政治保安部)に行き、書類にアシーナ(署名)をする必要があった」(レイ子さん)という。 しかし、毎週バストスからサンパウロに通うのは大変だったため、レイ子さんが小学生半ば頃の1943年、一家揃ってサンパウロ市のボスケ・ダ・サウーデ区に引っ越した。 「軍人だったから厳しい人でした。時間にも正確で夜の8時に帰ると言ったら、必ずその時間に帰ってきてね。私らは毎日学校から帰ってきたら、まず宿題しないと外に出させてもらえなかった。でも、教育熱心で日本語、唱歌や『君が代』などを教えてくれたり、パウロとはたまに一緒にボール遊びをしてくれたり、優しい一面もありました」と、レイ子さんは脇山氏の人柄を振り返る。 1946年4月1日には、野村忠三郎氏の射殺事件が発生。脇山家でも警戒を強めていた。 「私たちの隣は『高橋さん』という日本人でしたが、何かあったらすぐに(隣家に)逃げこめるようにしていました」(パウロさん) 「事件」当日の46年6月2日、夕食を済ませた脇山氏は当時9歳だったパウロさんの相手をして一緒に遊んでいた。次女の美代子さんは当時まだ4歳。祖母である静枝さん(脇山夫人)が寝かしつけ、父親の一郎さんは仕事で留守だった。母親は終戦間も無い45年8月17日に亡くなっており、静枝さんが母親代わりとして孫たちを育てていた。 そうした時、家の扉が叩かれ、「お客さんが来た」と思ったレイ子さんとパウロさんは2人して扉を開けた。立っていたのは若い男たちが4人。「脇山大佐を呼んでくれ」との依頼に、2人して応接間の脇山氏を呼びに行った。 パウロさんの記憶ではその時、応接間の椅子が一つ足らなかったので、レイ子さんが気を利かして他の部屋から椅子を持っていったというが、レイ子さん本人は覚えていない。 子供ながらに只ならぬ雰囲気を感じ取っていたパウロさんたちは、祖母に台所に連れていかれながらも、応接間のことが気になった。扉の隙間から様子を窺っていたが、男の一人に「激しくバシンと扉を閉められたこと」を今でも覚えている。拳銃の音が鳴り響いたのは、男たちが応接間に入ってからすぐのことだったという。 レイ子さんたちは祖母に急かされて隣家に逃げ、何の被害も無かったが、脇山氏は応接間の中で倒れていた。 脇山家族は事件の後、サンパウロ市ピニェイロスやツクルビーなどを転々とした。一郎さんは50年6月に死去し、レイ子さんは父親の四十九日法要が終ってすぐに結婚。パウロさんはバストスに戻るなど姉兄妹たちは一時期バラバラに別れることになった。祖母の静枝さんと2人になった美代子さんは「寂しくて1週間は泣いた」という。 事件当時、幼くて記憶がほとんど無い美代子さんは「(祖母が)どうして自分のマリード(夫)を殺した人を憎まずに生きていけるのか」と不思議に思い、その後、静枝さんに事件のことを何度となく聞こうとした。 しかし、静枝さんは「心の中に憎しみを持って生きるのは良くない」と何の話も聞かせてくれなかった。 事件の影響で姉兄妹たちはその後の苦労を強いられたが、今はそれぞれサンパウロ市内に住み、何かあるごとに顔を揃える。日系社会の歴史として「当時の話を記録していく必要がある」と3人は、記者の取材に快く応じてくれたのだった。
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戦後の勝ち負け抗争で荒れた混乱期の日系社会で、沖縄戦の悲惨な状況を伝え聞き、同胞救済の支援運動組織として1947年6月に「沖縄戦災救援委員会」がサンパウロで結成された。 ブラジル沖縄県人移民史『笠戸丸から九〇年』によると、同委員会の中心メンバーは、沖縄県人会初代会長の翁長助成氏、第3回歴代会長の上原直勝氏たちだった。 一方、「沖縄県人マウア入植七十一周年記念誌」では、救援委員会の動きは45年4月、沖縄戦の直後にすでにマウアーで「戦禍被害復興助成会」という名称で発足。7年におよぶ活動での救援金が52年、当時の琉球政府に贈られた歴史的事実がある。 伯国内では敵性国民として各日系団体の活動が表面的に停止していた当時、情報が入りにくい状況の中で、同胞を思う気持ちがそれぞれの救援活動につながったと見られる。 サンパウロの上原氏たちは母県への救援募金や慰問小包の取り扱いなどを行っていたが、日本の敗戦を認めない「勝ち組」からは活動を妨害されるなど、同じ沖縄県人の中でも「勝ち負け」両派に二分する時代でもあった。 そうした募金活動の一環として、47年頃に結成されたのが「少女舞踊団」だった。サンパウロ州リンス管内の上塚第2植民地アリアンサ区やサンパウロ市内で複数回の慈善公演が実施されている。 メンバーの一人だった上原時子さん(80、2世)は、当時18歳。当初は設立の意味も分からず、親の命令で「踊りをしなさい」と言われてメンバーに加わった。時子さんはサンパウロ州リンスで生まれ、1歳の時に上塚第2植民地アリアンサ区に移り住み、同地で約40年を過ごした。 小学校1年生の時から日本語学校にも通い、戦時中は「カフェの倉庫の中で隠れて勉強しました。そのお陰で新聞も読めるようになりました」と当時を振り返る。 同地には日本語学校と「青年処女会」があり、時子さんも13歳頃から入会。カフェ生産の手伝いの合間に会の活動にも積極的に参加していたという。 そうした中、47年頃に「少女舞踊団」結成の話が持ち上がり、時子さんは前述の通り、親から半強制的に入れられた。 「当初は人前で踊るのが恥ずかしいと思っていましたが、沖縄への物資として『鉛筆の一本でも贈ってやろう』との気持ちから練習に励みました」 舞踊団の指導者には、協和婦人会の会長などを務めた具志堅喜久(きく)さん(86)の義父・具志堅永昌さんが任命された。永唱さんは、同地で「アリアンサ処女舞踊団」を組織し、その指導者として戦前から沖縄芸能文化の伝承に貢献していたという。 「普段はほとんど、ものも言わない無口な人でしたが、いざ踊りとなると本当に熱心でした」(喜久さん) 舞踊団の練習は毎週土、日曜日の週末に「(アリアンサ区の)マンガの木の下」(時子さん)で行われ、日曜日は昼食後から夕方まで繰り返された。 慈善公演は47年頃にアリアンサ区の「カフェ・マキナ」と呼ばれるカフェの皮むき工場内やリンス市内などと、49年頃にサンパウロ市イピランガ区にあった学校の舞台などで2回ほど披露されたという。 今年(2008年)8月2日に行われたアリアンサでの集いで時子さんは、当時の舞踊団メンバーの伊波スミ子さんに40年ぶりに会うことができた。スミ子さんは具志堅永昌さんの娘で、喜久さんの義妹にあたる。 時子さんは、「大勢の人が居たので、ゆっくり話もできませんでしたが、本当に懐かしかった」と感激していた。 「その頃は踊りのことしか考えていませんでしたが、今から思えば(救済活動に加わったことを)誇りに思います」と時子さん。ウチナーンチュとしての思いは今も変わらない。 (おわり)
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