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マツモトコージ苑
     2008年  (最終更新日 : 2018/10/25)
残り少なくなる東洋街の日本人店

残り少なくなる東洋街の日本人店 (2018/10/19)  海外の邦人社会で世界最大と言われるサンパウロ市の中でも、とりわけ日本のイメージが色濃く残るリベルダーデ区の東洋人街。かつては「日本人街」として活況を呈したが、現在では中国系、韓国系などの台頭により、日本人・日系人の活動も右下がり傾向になっていることは否めない状況となってきている。そうした中でも同地区で活動を続ける日本人と日系人の店舗を、今後の記録の意味を含めて連載で取り上げる。

(1)

 エスツダンテ街70番に店を構える「根本めがね店」。茨城県出身の根本三郎さん(86)と四郎さん(81)の兄弟2人で58年間にわたって経営している、日本人第一号の眼鏡屋店だ。 
 「もんてびでお丸」に乗船し、1930年9月28日にサントス港に着いた根本家族は、モジアナ線サンタルシア耕地のカフェザルにコロノ(契約農)として入った。しかし、三郎さんの妹が麻疹(はしか)で亡くなったことをきっかけに、アララクアラ線カタンヅーバ近くの日本人入植地「ボア・ソルテ」に転住した。
 渡伯当時8歳だった三郎さんは、父親の綿作りなどを手伝いながらも、洗染業を行っていた従兄妹の呼寄せにより、兄姉の中でも逸早くサンパウロ市へと出ることに。自ら洗染業に従事して覚えながら、戦後間もない47年頃、セントロ地区に独立して開業。両親と兄姉たちを呼寄せた。 
 当時、洗染業は景気が良かったが、その頃のアイロンは、炭を入れて使用する重さが5キロもある代物。身体の小さかった三郎さんは体力的に参ってしまい、スペイン人が経営していた眼鏡のフレーム(枠)を作る工場で働くことになった。
 その頃から、「将来的に自分の店を持って独立したい」と思っていた三郎さんは、眼鏡屋の経営を思い立った。
 「当時、サンパウロで一番大きな眼鏡屋だった」(三郎さん)という「ア・エスペシャリスタ」という店舗で修業を兼ねて6年間働き、資格免許を取得した。
 弟の四郎さんも数年後に眼鏡屋の免許を取得。58年、リベルダーデ広場に隣接するビル内に小さな店舗を借りたのが、「根本めがね店」の始まりだった。
 その頃は日本人の眼鏡屋は珍しく、日本語で応対できる店舗として得意客が増え始めた。
 「まだエスツダンテ街も今のように賑やかではなく、リベルダーデ広場も草木が茂っていたよ」と三郎さん。その後、「眼鏡屋は儲かる」との噂が広がり、5、6年で日本人の眼鏡屋が急増したという。
 特に三郎さんが「景気が良かった」と、しみじみ語ったのが、60年代のアデマール・デ・バーロス州知事の時代。「その後にインフレが来て、その先からが、ややこしい時代になった」。70年、根本兄弟は現在のエスツダンテ街に念願の「自分たちの店」を購入。以来、現在も月曜日から土曜日の週6日間、午前8時から午後6時半まで(土曜日は午後1時まで)地道に働いている。
 60~70年代のような活況は無いが、今も日本語で応対できる店として、主に1世の高齢者が行き来する。
 時代の波が押し寄せる中、三郎さんは「これから先は(東洋街が)どう変わっていくのか分からんね。でも、こればっかりは仕方が無いね」と、どことなく寂しそうだ。「僕らの生活は特に変わったこともない、平凡な毎日ですよ」と語る三郎さん。その一方で書道や墨絵などの趣味を持ち、旅行なども楽しんでいるという。
 「自分は(酒は)飲まないけれど、色んなところに顔を出して交流していますよ」とも。真面目な中に見せる明るい笑顔が輝いた。

(2)

 「移り来て、仕事一筋、我が人生」―。サンジョアキン街249番でBAR(簡易飲食店)を経営する宮城新雄(しんゆう)さん(74、沖縄県国頭村出身)は、自身の生活をこう表現する。戦前に渡伯していた叔父(母親の弟)の呼び寄せもあり、沖縄開発青年隊の第3次隊として1958年、「ルイス号」で単身海を渡った。
 そのまま、叔父が行っていたBARの仕事をサンパウロ市タツアペ区で手伝い、途中、パステル製造販売の従業員として7年ほど勤めた経験もあるが、40年以上にわたってBAR業に携わり、今も現役で続けている。
 60年、叔父がリベルダーデ区タマンダレー街に店を移したが、その後もベレン(サンパウロ市)やビラ・カロンなどを転々とした。
 63年、叔父の紹介によりパラナ出身の日系2世である千代子さん(71)と結婚。「何でか知らんけど、(千代子さんが)付いて来たもんね」と宮城さんは照れ笑いを浮かべる。
 その後は、夫婦による二人三脚のBAR経営が続く毎日。75年には沖縄県出身の「先輩」から任され、現在の店に移った。
 「食べて、子供を育てないかんからね。他に何もやることを知らんもん、しょうがないよね」と宮城さんは、商売一筋の人生を振り返って、こう語る。
 4、5年、借家の同店で働いた後、先輩から「この店を買ってくれ」と言われ、初めて自分の店を持つことができた。
 「その頃は従業員も朝2人、夜2人も雇って、一番忙しかったよね。(サンジョアキン街の道を隔てた)向かいには、日本人のキタンダ(八百屋)やBARもあって賑やかで、文協の人(職員など)もよく来ていたね」
 BARの名前は、プレジオ(建物)の名称にちなんで「モンテ・フジ(富士山)」。以前は午前6時から午後11時半まで開店していたが、今はプレジオが閉まる午後10時で店を閉めている。当時は、客層の中でも特に学生が多く、早朝や夜遅くにサンドイッチなどを食べに来る青年たちで賑わったという。
 現在は、長男とその嫁が交代で店を手伝ってくれるため、「大分と楽になったよ」と話す。千代子夫人は、店には出なくなったが、今でも早朝に起きてコシーニャなどの軽食類を手作りし、その商品が店頭に並ぶ。
 宮城さんがBAR業をやっていて寂しい思いをしたのは、遊び盛りの子供たちをほとんど何処にも連れて行けなかったことだった。
 「末っ子が3歳か4歳の時に一回だけプレイセンター(遊技場)に行って遊んだことがあったね」と回想する宮城さんだが、今年(2008年)8月にジアデーマの文化センターで開催された沖縄県人移民100周年記念式典にも行けなかったという。
 長男は大学中退後、日本に出稼ぎにも行ったが、今は父親の手伝いを黙々と行う。その姿を見ながら「継いでもらうのは嬉しいけど、こういう商売は1世で終ってしまうかもね」と寂しそうに笑う。
 12年ほど前には過労がたたり、心臓病を患った宮城さんだが、病院で治療を受け、手術することなく「店をやりながら、病院に通った」という仕事熱心さだ。BARには日系人の常連客も少なくなく、今も「宮城さん」と気軽に声を掛けて行く。
 楽しかった思い出について聞くと、「いろいろあり過ぎて、いちいち覚えてないよ」と屈託なく笑う宮城さん。今も家族の支えを受けながらも、一日一日を地道に生きている。

(3)

 1975年から開店し、再来年(2010年)で35周年を迎える高野書店。コンセリェイロ・フルタード街759番にレンガ造りの店を構えている。
 主人だった高野泰久さんは、2007年4月21日に66歳で亡くなり、現在(2008年)は、夫人の正枝さん(60、2世)が店番を務める。
 南米産業開発青年隊の8期生として、単身で海を渡った泰久さんは、1962年5月11日にサントス港に到着。パラナ州ウムアラマの訓練所で研修した後、奥地で綿生産やスイカなど果樹栽培にも従事したという。
 60年代後半にサンパウロに出た泰久さんは、サンカエターノ・ド・スールのGM(ジェネラル・モータース)の機械工として働き、サラリーマン生活を行った。
 72年、サンパウロで小学校教師をしていた正枝さんは、当時泰久さんにポルトガル語を教えていた女友達の誕生祝いに出席したところ、泰久さんと出会い意気投合。同年、2人は結婚した。
 GMから、鉄塔を造る会社に移っていた泰久さんはある日、同じ山梨県出身で当時の県人会長だった故・高野芳久氏から、サンパウロ市モエマ区で日本語書店を経営していた「ヒグチ」という日本人を紹介された。
 その日本人が書店を閉店するというので、芳久氏から日本語書店の経営を勧められた。
 「本が好きだった」(正枝さん)という泰久さんは、サラリーマン生活に終止符を打ち、当時トマス・デ・リマ街(現:ミツト・ミズモト街)にあった山梨県人会館の表部分を間借りして、書店を開けた。
 「あの人は、やると決めたらすぐに行動に移す人だったので、本屋になるという不安を感じる暇も無かったね」と正枝さんは当時を振り返る。
 サラリーマンを辞めて、定期収入が無くなるという不安はあったかもしれない。しかし、その頃はまだ日本人1世も多かった東洋街では、日本語書籍はかなり売れた。
 「私はあの人が亡くなるまで40年も教師をしていたから、あまり詳しいことは分からなかったけど、その頃は少女雑誌やマンガなどが特に売れていたよね」
 90年代半ばには、現在の場所に念願の自分の店を構えることができた。日本でも絶版になっている南米関連の書籍をはじめ、日系社会がらみの記念誌や書籍も少なくない。単なる「本屋の親父」ではなく、客との信頼関係を通じて、様々な情報を持っている主人でもあった。
 「立ち読み、座り読み」というチラシを自分で作り、邦字紙の記事や思いついたことを書いては、客が注文した書籍とともに送っていた。午前7時半頃には店を開け、閉店後も書店に留まっては、本の整理などを行い、「帰ってくるのはいつも夜の11時か11時半でした」(正枝さん)というほど仕事ぶりだった。
 その一方で、日伯交流協会の研修生を20年間にわたって受け入れた。「ガンコ親父と言われたけど、後になって研修生たちからは『あの時、高野さんに言われたことが今になって分かります』という手紙がよく来ていたね」と正枝さん。「まだまだ夢があり、やりたいことがいっぱいあると言ってたんだけどね」と寂しそうな笑顔を見せる。
 「今でもアマゾンなど遠くから、本の注文が来るんだけど、私ではあまり分からなくてね。高野が亡くなった時には、店を閉めようとも考えたけど、お客さんのことを思うと、続けた方が良いと思ってね」と正枝さんは、戸惑いながらも泰久さんの思いを持ち続けながら、今日も書店を支えている。

(4)

 「あの頃は本当によく働いたわね」―。アメリコ・デ・カンポス街76番地で「木村理髪店」を営む木村光子さん(72、熊本県出身)は、今も現役で客たちの髪を切り続けている。
 主人の伯父(父親の兄)の呼寄せにより、花嫁移民として1960年1月、オランダ船の「テゲルベルグ号」で渡伯した光子さんは、熊本で農業などを行っていたが、「外国に行きたい」との考えが強かったという。
 主人の木村秋行さん(76、熊本県出身)は、光子さんが来る4年前に、やはり伯父の呼寄せでブラジルに渡っていた。
 その頃、サンパウロ州パウリスタ線のイラプルーにあった木村農場は約1000アルケール(約2400ヘクタール)の広大な土地を持ち、綿作が全盛の時代「収穫の時はあたり一面に雪が降ったようだった」と光子さんは振り返る。
 4年半、イラプルーで農業生活を続けた光子さんは、子供の教育を重んじ、サンパウロに出ることを決意した。65年頃のことだった。
 「農場に居たら不自由も無かったんだけど、子供のことを考えると、サンパウロの学校に行かせないとと思ってね」
 援協に職探しの相談に行ったところ、女性の床屋は珍しいと勧められ、「それなら自分がやってやろう」とリベルダーデのセントロ区にあった理髪専門学校に数か月通い、技術を身に付けた。
 その間、子供はグアルーリョスの親戚のところに預け、同区エスツダンテ街にあった池田ホテルを手伝って寝泊りしながら、専門学校に通った。66年には、リベルダーデ広場にあった台湾人が経営する理髪店で働くことになったが、実際に髪を切る職人は日本人ばかりだった。同店で実践の技術を身につけるとともに、固定客も少しずつ増えていった。
 70年代初頭に独立。ガルボン・ブエノ街293番地を店を開けた。その当時、東洋街の日本人理髪店だけで10軒以上あったという時代。生存競争の激しい中で、光子さんの店は朝から晩まで客が絶えなかった。
 「朝8時から、夜は11時か12時になるのはザラだった。一番遅い時は、夜中の2時まで働いたよ。向かいがBARだったから、飲みに来た客が散髪することもあったし、バタテイロ(ジャガイモ生産者)が収穫したカミヨンをそのまま運転して来ることもあったね。まあ、今と違って平和な時代だったからね」
 総領事や大使が髪に来ることも度々だったが、援協会長を務めた故・竹中正氏は、午前6時に理髪の予約を入れると、午前5時半には光子さんの自宅まで運転手が迎えに来ることもあったという。
 また、フッテボール選手で93年から日本で始まったJリーグの立役者である「カズ」こと三浦知良さんもブラジル留学時代から同店を利用し、今でも数年に一度は顔を見せに訪れる。 
 地方からの常連客がサパウロに出てきた際に、立ち寄ることも少なくない。リベルダーデ界隈の人たちの憩の場としても、根強い人気がある。
 「良いお客さんたちに支えられたね」と光子さん。「今はもう、昔のように働くこともこともなくなったけれどね」と言いながらも、まだまだ現役を貫き通している。

(5)

 日本人の店で忘れてはならないのが、洗染業。俗に言う洗濯屋さんだ。親子2代にわたって戦前から営業しているという「ラヴァンデリア・リラ」店は、グロリア街539番地にあり、今でも午前7時半の開店時間から次々に客が訪れる。
 経営者である佐藤ルイザさん(61、2世)によると、同店は父親の西村正人さん(故人、山口県出身)が独身時代の1940年代前後から始め、当時はブラス区のマリア・マルコリーナ街に店があったという。
 正人さんは、27年に12歳で渡伯し、奥地のカフェザルでの農業経験もあった。
 40年に北海道出身のスサエさんと結婚。50年代初頭からリベルダーデ区のガルボン・ブエノ区に店を構え、54年にはグロリア街294番(2008年現在は美容院)に移転した。
 当時は洗染業協会だけでも、複数がひしめき合っていた。日系議員の票を取りまとめて当選させるなど、協会としてかなりの力を持っていたことが伝え聞かれている。
 現在、サンパウロで唯一残っているのは、パウリスタ洗染業者協会(池田エリオ会長)だけ。全盛当初は、同協会だけで500人の会員がいたというが、2008年11月現在の会員数は150人。ここ30~40年で、いかに日本人の洗染業者が激減したかが分かる。
 西村さんの店でも全盛時代は、午前7時半から午後10時頃まで開店するなど、多忙を極めた。
 「その頃は親睦会が毎月あって、それぞれの洗濯屋が値段を同じようにするように話し合いをしたり、うちの父も会合に行っては皆さんと一緒に飲んだりして、楽しみにしていました」(ルイザさん)
 ルイザさんが店を手伝いだしたのは、19歳の時。父母からは常に「勉強をして、真面目に生きなさい」と言われ、サンパウロ大学の夜間部に通いながら、店の手伝いを行った。
 現在のグロリア街539番地に移ったのは、1987年。正人さんはその数年前にアポゼンタ(定年退職)し、その時に店の名義をルイザさんのものにしていた。
 「今は、本当に日本人の洗濯屋さんは少なくなりました。以前はウチの従業員も全員、日本人でしたが、今は1人以外は全員ガイジン(ブラジル人)になっています」とルイザさん。それでも今でも店が繁盛しているのは、父母の代から受け継いだ「日本人の信用」があるからだ。
 以前はほとんどの客が日本人だったが、客層も変わった。10年ほど前からは学生の客が増えだし、衣服にアイロンを当てずに洗濯のみを注文する学生も少なくないという。そのため、ルイザさんは衣服の重量によって値段を決める「ポルキロ」方式を採用。特別なクリーニング以外は、安価なポルキロ方式が顧客にも喜ばれている。
 今年(2008年)5月には、一緒に店を手伝ってくれていた母親のスサエさんが88歳で他界した。亡くなるその日まで、店を手伝ってくれていただけに、ルイザさんにとってもショックが大きかったようだ。
 将来についてルイザさんは「先のことは分からないけど、できるところまで仕事を続けたい」と父母の教えを貫く考えだ。(おわり)



 
 


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