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マツモトコージ苑
     2010年  (最終更新日 : 2018/09/14)
シベリア抑留経験者の谷口範之さん [全画像を表示]

シベリア抑留経験者の谷口範之さん (2018/09/10)  「何を今さら、という感じ」―。2010年5月21日、「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」(シベリア特措法)案が日本の参院本会議で全会一致で可決され、元抑留者への特別給付金支給実現の可能性が極めて高くなった(後日、実現)。このことについて、サンパウロ市在住の谷口範之さん(85、広島県出身)は、低い声で冒頭の言葉を呟いた。旧満州北西部でのソ連軍との戦闘後、捕虜としてシベリアに約1年3か月間抑留された経験を持つ谷口さんに、当時の苦しい体験や思いなどについて話を聞いた。

(1)

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ソ連軍との戦闘を説明する谷口さん
 9人兄弟の3男で、諸事情により1歳の時に谷口家に養子に出されたという範之さん。広島市内の旧制中学を繰り上げて卒業した後、先輩のつてなどで単身17歳で満州の新京へ。同地の「満州電信電話株式会社」に事務員として入社した。当時の同社の従業員は5万人もいたという。
 1944年12月、20歳の時に徴兵されたが、同年7月に風土病に罹り、高熱と下痢で入院していたために入隊が遅れた。翌45年3月、関東軍の第119師団歩兵第254連隊第3機関銃中隊に入隊。満州北西部の大興安寧山脈の海抜1800メートル地帯に設営された免渡河(めんとか)に駐屯した。
 同地の一個連隊は約3000人。中隊には約200人が所属し、同期は約40人が一緒だったという。
 谷口さんの説明では、機関銃は銃身と架台の2つの部分から構成され、それぞれに約30キロの重量があり、さらに弾薬箱も30キロという重さになる。行軍の際は、4人1組で所持するため、30キロ入りの砂袋を担いで50メートル走るという訓練も課された。
 「1944年の10月前後には、関東軍は主力部隊を南方に移していました。今から思えば我々は、その穴埋めのためにソ連国境へと配備され、捕虜になるために行ったようなものでした」
 45年8月、ソ連軍は満州に侵攻を開始。同月6日未明に本隊から、免渡河より約80キロ離れた伊列克図(いれくと)への移動が命令された。谷口さんたちが乗った深夜の臨時列車には、海拉爾(はいらる)方面から来たと思われる日本人の民間人が満員の状態だったという。
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谷口さんが所持している旧満州の地図
 同月13日、谷口さんが所属していた第3機関銃中隊に出撃命令が出され、伊列克図の西丘陵部先端に広がる台地に配備された。
 翌14日午前9時頃、西方面の地平線から土埃が上がっているのが見えた。その後ろにあった黒い影はソ連軍の戦車で、計約250台が次々と姿を現した。自軍の砲台からの砲弾が戦車に直撃したが、よどみもなく前進を続ける戦車群を目の当たりにし、「どうにもならない」との気持ちが谷口さんの心を支配した。
 午後からはソ連軍の凄まじい砲撃が始まった。「頭の上を砲弾が飛び交い、本当に恐ろしかった」と谷口さんは、当時の様子を生々しく振り返る。
 同月18日、壊滅状態の中で最後の出撃命令が下り、「生きては帰れない」と覚悟を決めた際、「終戦」の報が届いた。
 高台を降りて鉄道駅近くで武装解除となった。3000人いた一個連隊は、半数近くに減っていたという。
 ソ連兵に自動小銃を突き付けられながら、谷口さんは財布、腕時計や万年筆を強奪された。
 その後、谷口さんたちは関東軍の陸軍病院があった博克国(ぶはと)まで約60キロの距離を一晩かかって歩かされ、同病院に2週間ほど閉じ込められた。
 この後、シベリアに送られることになろうとは、思いもしなかった。

(2)

 1945年9月2日、博克国(ぶはと)の陸軍病院跡に一時的に収容されていた谷口さんたちは、飯ごうに半分ほどの白米と味噌汁を支給された後、倉庫前の広場に集合させられた。日本軍の佐官とともに壇上に立ったソ連軍の将校から、捕虜たちが汽車に乗って日本に帰れるということを説明された。
 その内容は、満州の鉄道は終戦時に日本軍によって爆破され通行できないために、「シベリア鉄道を経由して日本に帰る」というものだった。
 誰もが日本に戻れると思っていたが、コンクリートで固められただけのプラットホームに入ってきた汽車の窓には、鉄条網がはめ込まれていた。汽車に乗り込み、日本に帰れないと気付いたのは翌朝、太陽が汽車の前方ではなく、後方の東側から昇ってきた時だった。
 「騙されたと思い、絶望的な気持ちになりましたよ」
 谷口さんたちが抑留されたラーゲリ(収容所)は、チタ州モルドイ村。北緯50度、東経111度、海抜3000メートルの僻地だったが、火力発電所があり、その付近には発電所用の炭鉱もあったという。
 収容所では朝晩2回、塩汁だけの食事が続き、数日後に高粱(こうりゃん)の実が50粒ほど塩汁の中に入れたものが出されたが、腹には溜まらなかった。
 空腹の上、極寒の地での強制労働を課せられた。作業内容は、発電所用貯水池のための土手の嵩(かさ)上げで、ツルハシやスコップなどで凍った地面を掘るのだが刃が立たない。外套、手袋などの防寒具を与えられたものの捕虜たちは夏服のため、寒さと重労働で日本兵たちは次々に倒れていった。
 比較的体力があり、樹木伐採の募集に応募した谷口さんは、収容所によって食糧や待遇にも大きな差があることを体験で知った。
 伐採地付近の収容生活を終えて45年12月下旬にモルドイに戻った時には、数多くの日本人捕虜が体力の低下が原因で死んでいた。モルドイに収容されたのは当初、約620人だったが、そのうちの約170人が亡くなり、遺体の山が積まれたという。
 収容所の身体検査により、体力が低下していると判断された谷口さんはシベリアの各収容所を転々と移動させられた後、46年12月、夢にまで見た日本に帰れることになった。
 北朝鮮の元山(げんさん)から船に乗り、翌47年1月9日に長崎県佐世保港に着いた。
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谷口さんが91年に再訪問したモルドイ収容所跡
 「大陸を移動中は、どこを通っているのか分らず、再びシベリアに戻されるのではないかと日本に帰れることを本気にはしていなかったが、日本に着いた時には言葉では表せなかった。本当に感無量でしたよ」と谷口さん。数多くの同志たちがシベリアで亡くなった中、生きて帰れたことに複雑な思いを持っていた。
 故郷の広島に戻り、戦後満州から引き揚げた節子夫人と24歳で結婚した谷口さんは、57年に家族で渡伯。アマゾンのグァマ移住地に入植した。
 その後、聖州ピエダーデなどでの農業生活を経て現在はサンパウロ市に住んでいるが、91年9月には「シベリア墓参団」の一員としてモルドイの地を再び踏みしめた。ブラジルから参加したのは谷口さんのみだった。
 今回、ようやく元シベリア抑留者に対して、特別給付金支給を目的とした特別措置法が参議院本会議で可決されたことについて谷口さんは、「何を今さらという感じで、アホくさいとしか思えない」と日本政府の補償が遅すぎたことに憤りを感じている。
 また、その対象が日本国籍者のみであることにも「おかしな話だ」と言いつつ、多くを語らなかった。
 谷口さんの自宅には、91年にモルドイを再訪問した時の写真が今も飾られている。(おわり)
 


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