移民百年祭 Site map 移民史 翻訳
マツモトコージ苑
     2010年  (最終更新日 : 2018/09/14)
母親のルーツを辿って [全画像を表示]

母親のルーツを辿って (2018/09/10)  「古田川(こたがわ)夫妻がいなければ、ブラジルに来ることはできなかった」―。戦前初期移民の故・小井出伊勢子さん(2001年、96歳で死去)のルーツを辿るため、2010年6月30日夜、一人娘の小井出桂子さん(84、広島県在住)が初めてブラジルを訪れた。古田川英雄島根県人会長夫人の揚子さんは昨年(2009年)2月に亡くなったが、渡伯する前に桂子さんが経営する洋裁学校の卒業生でもあったため、伊勢子さんとは生前に親交があったという。2人の不思議な縁により、伊勢子さんが所持していた「コロニア最古」と思われる旧グァタパラ耕地の日本語学校の写真が伯側に贈られた。桂子さんは7月1日から母が育ったサンパウロ州北部のグァタパラ移住地を訪問し、同3日の入植48周年記念式典にも出席。亡き母の思い出の地を踏みしめた。

(1)

IMG_80881.jpg
初めて来伯した小井出桂子さん
 母親の伊勢子さんは1913年、7歳で家族とともに「雲海丸」で渡伯。サンパウロ州北部のサンマルチン・コーヒー農園に入植したが、日本語学校があったことから翌14年、隣の耕地だったファゼンダ・グァタパラ(旧グァタパラ耕地)へと転住。3年間同地で過ごした。
 その間、「移民の父」と呼ばれた平野運平氏の下で副監督官を務めていた第2回旅順丸移民の故・弘田千代太氏に可愛がられたが、平野氏が15年8月、移民たちを引き連れて現在の平野移住地へと移ったことなどから、グァタパラの日本語学校は廃校となっている。
 18年にミナス州に移り米作を行った小井出家族だが、収穫は良かったものの運賃が高くて元が取れず、1年半後には再びグァタパラへと戻った。
 20年、14歳になっていた伊勢子さんは、同地に在住していた「フランス人のアンヌ夫人」に洋裁を習い、手に職を付けた。
IMG_80901.jpg
桂子さんが持参した母親の資料
 小井出家族は、23年11月に「わかさ丸」でサントス港を出港し、日本へと帰国。その原因となったのが、同年9月に発生した関東大震災だった。東京に住んでいた祖母の安否が気になり、一家揃って日本に引き揚げた。伊勢子さんは17歳になっていた。
 その後、伊勢子さんはブラジルで習った洋裁に加え、日本でも和裁を勉強し、32年に故郷の広島市で現在の「広島ファッションビジネス専門学校」の前身となる洋裁学校を設立した。
 一方、伊勢子さんの一人娘として広島市で生まれ育った桂子さんは、戦時色が濃くなると、学徒動員で採られ「暁(あかつき)部隊」(陸軍船舶司令部)に所属し、負傷兵などの看護に当たっていた。
 45年8月6日に原爆が投下され、広島市内から4・1キロ離れた場所で被爆した桂子さんは当時19歳。「山に横穴を掘って、重要書類などを入れていたのですが、大きな音がしたので空を見上げると、きのこ雲が見えました。その時は何が行ったのかは、分かりませんでした」と当時の様子を振り返る。
 広島県内に疎開していた母の伊勢子さんだったが、桂子さんの安否を気遣い、その翌7日に広島市内へと入り、入市被爆している。
 戦後、生き残った親子が力を合わせ、現在では広島駅に程近い中心地に9階建てのビルを所有し、生徒数460人を誇る同県内で最大規模の洋裁学校へと成長していった。

(2)
    
IMG_80961.jpg
母親の伊勢子さんのことを説明する桂子さん
 母親の伊勢子さんが、「ムイト・グランデ(とても大きい)」「オセ(あなた)」「エステ・コモ・シャーマ(これは何という名前ですか)」などといった簡単なポルトガル語を「ちょくちょく話していた」という桂子さんだが、ブラジルについてのことを伝え聞いたことはほとんど無かったという。
 ブラジルから日本に帰国後20、30年ほど経って日記を付けるようになっていた伊勢子さんは、60代になった頃からブラジルでの思いを『夢の処女地』『こんな女が一人いた』『宏深の夢』という3冊の書籍に書き残している。
 その清書を手伝った桂子さんは、「母は(原稿を)書くのがあまりにも速いので、大変でした」と振り返る。
 それでも「ブラジルに来るなど思いもしませんでした」という桂子さんをその気にさせたのは、かつての母の教え子だった古田川揚子さん(2009年2月死去)が、90年代はじめに一時帰国したことだった。
 母校を訪れ、ブラジルに移住したことを報告した揚子さんが伊勢子さんから「この本を読みなさい」と渡されたのが、『宏深(こうしん)の夢』だった。
 その中には、「大正三年十一月に、サンマルチンニョの隣の、ファゼンダ、グァタパラに移った。グァタパラには日本人学校があるからというのが理由だった。(中略)グァタパラに来て三年間経過した。学校の方は六年生に進級したが、総監督の平野さんがほかに土地を買い、平野植民地を結成して、グァタパラの日本人ほとんどを連れて行ったので、日本人学校は廃校になった」などとという記述もある。
 島根県人会の古田川英雄会長は、グァタパラ農事文化体育協会(川上淳会長)副会長で同県人会のグァタパラ支部長も務める新田築(きずき)氏に同書を送ったところ、「歴史的な大発見」として同地関係者はさらなる史料を求めていた。
 08年10月に母校を再訪した揚子夫人は娘の桂子さんに会い、旧グァタパラ耕地のことを知るその他の史料があるか依頼していたところ、揚子さんが亡くなった翌月の09年3月になって古田川会長のもとにコロニア最古と見られるグァタパラ耕地の日本語学校の写真が送られてきた。 
 A4サイズほどの大きさの貴重な写真のオリジナルは、グァタパラ農事文化体育協会に寄贈されている。
 今年(2010年)4月末に訪日した川上会長は、入植記念式典の招待状を持って広島の同学園を訪問。今は亡き伊勢子さんと古田川夫人との不思議な縁が取り持ち、桂子さんは「自分たちの洋裁学校のルーツを知るのは今しかない」として、ブラジルに行くことを決意。今回の実現につながった。
 6月30日夜、長女の椎野千砂さん(52)と2人で来伯した桂子さんを空港で迎えた古田川会長は、翌7月1日にグァタパラ移住地に向けて出発。一行は、隣町リンコンに眠る弘田千代太氏の墓参を行うとともに、3日にグァタパラ文協会館で行われる入植48周年記念式典にも出席し、リオ、サンパウロでの観光を経て、7日に帰国する。
 桂子さんは、「古田川さんご夫妻がいなければ、ブラジルに来ることはなかった。これも何かのご縁だと思う」と語り、亡き母が育った地を踏めることに大きな喜びを示していた。(おわり)


前のページへ / 上へ / 次のページへ

松本浩治 :  
E-mail: Click here
© Copyright 2019 松本浩治. All rights reserved.