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     2010年  (最終更新日 : 2018/09/14)
帰化したシベリア抑留経験者の安中裕さん [全画像を表示]

帰化したシベリア抑留経験者の安中裕さん (2018/09/13)  「お国のために苦労してシベリアまで行かされたのに、ブラジルに帰化したから認められないというのは無情に思う」―。パラナ州ロンドリーナ市に在住する安中裕(ゆたか)さん(84、北海道出身)は、1945年の終戦後から3年間、シベリアに抑留された経験を持つ。しかし、80年代初頭にブラジル人として帰化したため、今年(2010年)6月に日本の国会で承認された「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」(シベリア特措法)による一時金支給が「日本国籍保有者に限る」という現行のままでは受けられない状態にある。

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舞鶴上陸の際に渡された引揚証明書を手にする安中裕さん
 1928年、家族とともに1歳で渡伯したが、伯国政府が発令した外国語禁止令などを憂慮した父親が日本に戻ることを決意。39年に日本に引き揚げた裕さんは、北海道札幌の旧制中学校高等科を18歳で卒業した。その後、父親譲りの写真技術を生かし、町立病院でレントゲン写真技師として働いていた。
 同病院の主任医師が衛生兵軍曹の経験があったため、父親の薦めもあり、45年3月、「札幌25連隊」に志願して入隊。1週間かけて樺太の上敷香(かみしすか)に出征し、同地の陸軍病院に派遣された。
 同地では約1か月間、歩兵訓練などをした後、病院で勤務。傷の手当ての仕方などを習った。同年8月6日、豊原(とよはら)の野戦病院行きの命令が下り、衛生兵ばかり10人ほどで現地入りしたのが、8月15日の午前6時頃。その日の午前10時頃に上司から「重大ニュース」があると呼ばれ、各民家でラジオ放送を聞かされたが、内容がよく分らなかった。
 放送後に隊長から召集されて終戦になったことを聞かされ、愕然となった。
 虚脱感に襲われた裕さんたちは、上司の命令で軍隊手帳を焼き捨て、それまで禁制だった日本酒とタバコが振舞われ、戦争が終わったことを改めて実感させられたという。
 終戦になっても患者がいるために豊原で衛生兵としての仕事を続けていたが、8月23日頃、ソ連軍用機2機が焼夷弾など爆弾を投下。豊原駅前付近は炎上し、日本への民間の引き揚げ者などがごった返す中、負傷者、死者が続出。裕さんたちは救護班を編成し、交替で手当てに当たった。その日の夕方、ソ連軍が豊原に侵攻。武装解除を余儀なくされた。
 9月に入って豊原から約40キロ離れた大泊(おおどまり)まで汽車で移動させられた。同地で大豆運びなどの労働を課せられた後、ソ連軍からは「ダモイ(帰国)」だと言われて10月頃に船に乗せられた。しかし、向かったのは日本ではなく、ウラジオストックのさらに北の名前も分らない港で下ろされた。
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昭和23年10月21日に舞鶴港に安中裕さんが上陸したことを示す引揚証明書
 港からは樺太の大地が見えたが、裕さんたちを待っていたのはシベリアでの極寒と過酷な強制労働だった。
 名前も分らずに収容された場所は、「昔の囚人が入っていたところで、馬小屋のような粗末な施設だった」(裕さん)という。
 サジに2杯ほどの高粱(こうりゃん)が入った水煮に、たまに大豆かすが付いた粗末な食事の中、裕さんたちは4人一組になり、鉄道の枕木を運ぶ肉体労働を課せられた。
 「枕木は角張っているので、私は背が高かったから4人で運ぶと角材が肩に食い込んで痛くてね」と裕さん。港に船が着くと、夜中でも起されて砂などの積載物を下ろしたり、下水掘りもやらされたことがあったが、凍土にはツルハシなどの道具も刃が立たない。掘る場所で火を炊き、氷を溶かしてから作業に当たるなどした。
 冬は凍える寒さで体力を奪われ、短い夏場は収容所に沸いて出る「南京虫」に悩まされた。
 「2段ベッドの上から何かポタポタ落ちてくると思ったら南京虫で、身体じゅうを食われたね」
 そうした厳しい生活の中でも裕さんはまだ若く体力があったため生き延びることができたが、体力の弱った戦友たちが次々に命を落としていった。

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出征する前の家族写真。前列中央が安中さん
 収容所からさらに奥地に入った場所で樹木の伐採、切り出しの作業もやらされたこともあった。ノルマを100%達成すると、わずかながらソ連貨幣の賃金がもらえた。
 身体に異常は無かったものの、冬場になると痩せた裕さんは、ある日、身体が衰弱していると判断されたのか炊事係りに回された。夜中から一人で抑留者たちの食事を作るのだが、温かい部屋でミーリョの粉やニシンの煮込みなどを作りながら、食事にありつけた。「自分はツイている」と裕さんは思った。
 1948年8月頃、山に入って仕事をしていた際、ソ連兵が呼びに来た。その頃には、共産党員による洗脳教育が行われ、それに関する日本語新聞も作成されていた。
 日本に帰るためには、嫌でも共産党教育に従ったフリをしなければならず、少しでも反抗的な動きをすれば、永遠に帰国はできない。
 「ひどい所に追いやられるのではと、ビクビクした」という裕さんだが、呼び出された理由は思いもかけない帰国命令だった。
 同収容所から選ばれたのは裕さん一人。「同じ苦労をした戦友のことを考えると、一人だけ帰国するのは忍びなかったが、どうしようもなかった」という。
 各収容所から選抜された約1500人もの日本人たちがナホトカに集まったが、なかなか帰国には至らずに共産党教育が続き、10月になった。
 「ここまで来て、またあのひどい寒さの冬を過ごすのはこりごりだ」と思っていた頃に、帰国が実現した。後から聞くと、冬場は港に氷が張って動けなくなるため、この年の帰国船はこれが最後だったという。
 帰国船である「信濃(しなの)丸」に乗船したが、共産党員の幹部が同船しているために気が抜けない。48年10月21日に舞鶴港に無事到着した時は、「ここが本当に舞鶴なのか」と信じられなかった。
 シベリアに抑留されていた時に一度だけ家族から手紙を受け取ったことがあり、家族が生きていることが裕さんに生きて帰る希望を与えていた。
 北海道へと戻り、偶然にも戦前の豊原に住んでいた同郷の潤子さん(2005年7月に73歳で死去)と知り合い結婚。その後、伯国生まれの妹たちがブラジルへの郷愁が高まったこともあり、父親を家長に51年12月に「ルイス号」で再渡航した。
 パラナ州ロンドリーナで写真館を経営し、生活のために82年12月にブラジル人への帰化申請を行った裕さんはその後、日本政府から何ら援助を受けることもなく、過ごしてきた。
 「シベリアのことは忘れたいと思っても、今でもたまに夢に出てくることがある。日本のお国のために戦ってシベリアに抑留された。わずかな金(一時金)をもらいたいと思っているのではなく、帰化したというだけで日本人として認められないというのは無情でならない。ブラジルでの生活の都合で帰化したが、今でも気持ちは日本人であり、ブラジル人にはなりきれない」
 裕さんには、南マットグロッソ州カンポグランデに在住する従兄弟の安中武弘さん(86、北海道出身)がいる。武弘さんも2年間のシベリア抑留を経験し、戦後に渡伯。その後、土地を買うために帰化しており、現在のままでは裕さんと同様、今回の日本政府の一時金支給の対象にはならない。
 こうした人々の心情を、日本政府はどう見るのか。10月に発効される予定の「シベリア特措法」の行方が注目される。(おわり)
【追記】
 結局、日本政府は「シベリア特措法」による一時金支給について「日本国籍保有者に限る」という法令を変えず、安中さんは一時金支給を受けることなく、他界している。  


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