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     移民の肖像  (最終更新日 : 2019/06/13)
仲真節子さん [画像を表示]

仲真節子さん (2012/09/11)
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卵の皮をむく仲真節子さん
 サンパウロ市ビラ・カロン区に住む仲真節子(なかま・せつこ)さんは、今年99歳の白寿を迎えた。30年ほど前から続けてきたパステス販売業の下準備を現在でも行うなど、年齢を感じさせない活動ぶりが周囲を驚かせている。幼い頃から苦労の連続だった節子さんだが、今は理解ある家族に囲まれ、心身ともに豊かな生活を送っている。
 節子さんは1907年、沖縄県泡瀬村で生まれた。子供の頃の名前は「グジー」と言い、22歳で結婚するまで戸籍が無かったという。父親が大東島に出稼ぎに出たまま音信を絶ったことが原因で、家庭不和の影響を受けた。親戚のもとに引き取られたが、学校に通うことも許されなかった。薪取り、畑仕事と奉公人とともにこき使われ、不当な扱いを受けるなど、幼い頃から苦労の日々が続いた。
 夫・良伝さん(1985年に78歳で他界)と結婚し、子供ができたことにより戸籍を取得。長男の良昇さん(故人)が生まれたのを機会に、夫の命名で「節子」という名前をようやく持つことができ、初めて自分の意志で生活できるようになったという。
 幸福な日々も束の間、1939年に良伝さんが鉄道事故で重症を負い、一命は取りとめたものの高額な薬代と長い入院による治療費がかさんだ。莫大な借金を抱えたが、戦時色が濃くなる中、良伝さんは不足物資の製造販売などを手がけ、自らの商才で負債を返済。その陰には節子さんの弛(たゆ)みない愛情があった。
 沖縄戦も経験した。1945年1月、沖縄上陸を目指すアメリカ軍の連日の空襲の中、次男が生まれた。生まれて間もない子供を抱え、防空壕に避難する生活だった。
 戦後は良伝さんの手がけた商売が順調に進み、当時の普天間地区では最大の酒類・調味料の卸特約店として繁盛した。
 戦前にブラジルで生活し、戦後の沖縄に戻っていた友人から南米移住の話を聞いた良伝さんは、大陸農業の夢に思いを馳せた。
 1960年5月15日、仲真家族はオランダ船「チサダネ丸」で神戸港を出航。同年7月17日にサントス港に到着した。サンパウロ州近郊の移住地に入植し、割の悪い傾斜した土地で思い通りにいかない生活の中、節子さんは「自分はこんなところで死んでしまうのか」と、ひとり涙をこぼしたという。
 渡伯後すぐに現在のビラ・カロン区に移転した仲真家族は、同地区でボリビアからの転住組とともに縫製関係の仕事に携わった。朝早くから夜中まで続く仕事。子供たちも昼は仕事を手伝い夜学に通う日々だったが、沖縄で培った苦労の連続が仲真家族を支えた。
 30年ほど前からは、パステスの屋台をフェイラ(青空市場)に出店。一日として休まない節子さんの姿勢が、ブラジル人客の共感を得た。今では、平日には医者として活動する孫たちが、週末にパステスを販売するなど、節子さんの思いを継いでいる。節子さんは、屋台には出なくなったものの、99歳の高齢になった現在も、パステスの下準備のためにジャガイモや茹で卵の皮をむく作業を続けている。その姿勢が周りを驚かせ、地道に働くことの大切さを子孫へと伝えている。身体もいたって元気で、耳が少し遠いくらいで「眼鏡をかけずに新聞や本を読むことができる」(家族)というほどだ。
 「一番の楽しみはテレビを見て、新しい情報を見ることです」と今も前向きな姿勢を崩さない節子さんは、渡伯した年月日を克明に覚えているなど、記憶力も衰えてはいない。通勤する孫たちのために早朝5時に起きてのカフェづくりを欠かさず、その帰りを心待ちに待っている。 
 今年6月24日には白寿者の1人として、サンパウロ・リベルダーデ区にある文化協会会館大講堂で表彰もされ、自ら会場に元気な姿を見せ、家族からの温かい祝福を受けた。
 今では、玄孫(やしゃご)もでき、嫁や婿を合わせると60人を超える大家族を持つまでになった節子さん。夫や長男夫妻に先立たれ、人生の目標を失いかけたこともあったが、毎週日曜日に自家用車で市内を案内してくれる孫たちに囲まれ、幸せな日々を過ごしている。(2007年8月号掲載)

  
  
 
 
            


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松本浩治 :  
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