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マツモトコージ苑
     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/04/22)
本田種子さん [画像を表示]

本田種子さん (2012/10/03)
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 バストス日系社会の草分け的存在である本田種子さん(92、岡山県出身)。1930年、15歳の時に、同移住地入植第2船目となる「博多丸」で家族8人の一員として渡伯した。
 家族は、故郷の岡山県で養蚕半分、農業半分の生産活動を行い、ブラジル行きは家長だった兄夫妻が決定した。そのために岡山の土地を売って1年間の居宅金を積み、ブラジル拓殖組合事務所に預けていたという。
 「『行け行け同胞、海越えて』でブラジルに来ましたけど、考えてみれば結局、私たちは棄て移民でしたわ」と語る種子さんだが、「でもコロノ(契約農)に入った人たちのように、私たちは苦労はしていません」とも。
 バストスの第1グロリア地区に入植した本田家族は、同地でカフェ生産に精を出したが、砂地のためカフェには向かなかった。
 「6年目にようやく収穫の時期を迎えたんですが、兄が『これじゃ、とてもやってはいけない』と言ってバストスの町に出たんです」
 町に出て始めた商売が、同地で最初のソルベッテ(アイスクリーム)屋だった。バストスから約40キロ離れたランシャリーナで営業していた人にやり方を教わり、繁盛した。
 20歳になった種子さんは、夫の正雄さん(故人)と結婚。正雄さんはタクシーの運転手などをやりながら家計を支えた。
 渡伯後、5、6年して日本に一時帰国することができたという本田家族は比較的裕福な暮らしぶりだったことが伺えるが、戦後の「勝ち負け抗争」に巻き込まれた。
 各種イベントの司会などを自ら率先して引き受けていた正雄さんは、当時から人の世話が好きで、バストス産業組合から情報を得て記事を書いては、人々に配って歩いた。
 そのため、日本の情報も逸早く入手できた。ラジオを持っているだけで警察に没収された時代、布団の中にラジオを隠して日本の情報を聞いては筆記していたという。そのことが、「勝ち組」である「臣道連盟」に狙われることにつながった。
 認識派(負組)でバストス産業組合専務理事を務めた溝部幾太氏が臣道連盟の凶弾に倒れたのが、1946年3月。「夜になって『ドーン』という音が聞こえたかと思ったら、ルア(道)の上の方から『溝部さんが殺されたー』という声が響き、本田(正雄さん)が外に飛んで出ようとしました。その時、私は『あんたも出ていったら殺される』と言って必死で止めました」と、種子さんは溝部氏が殺された時の生々しい話を聞かせてくれた。
 暗殺事件が発生した後の或る日、1人の子供が「おじさん、これ」と言って正雄さん宛に木箱を持ってきた。瞬時に、それが爆弾であることを悟った種子さんは、「開けちゃ、ダメ」と叫び、蓋(ふた)の隙間から中身を確認したところ、桃色の火薬が詰まり、注射用のゴムで固定されていたという。
 「あの頃はまだ長男も10歳くらいで、家族に何かあってはと、本当に恐い思いをしました」と種子さんは当時のことを今も鮮明に覚えている。
 現在、3女の柴田ニーナさん(61、2世)と同居している本田さんは毎朝5時半には起きて、家から程近い文協会館横にある公園でラジオ体操を行い、週2回ある盆踊りの練習が何よりの楽しみだという。今年7月に開かれた第48回卵祭りでも、娘たちに付き添われて会場に行き、大好きな盆踊りに興じるなど、元気な姿を見せていた。
 家族や知人たちからの暖かい愛情を受けて生活している種子さん。「今は幸せそのものですよ」と笑顔を見せた。(故人、2007年9月号掲載)


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松本浩治 :  
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