大江牧夫さん (2012/11/11)
「海外移住に男のロマンを感じていたよ。とにかく、広い場所に行きたかったね」―。 当時の家長として唯一、今もアマゾン地域のグァマ移住地(パラー州ベレン市近郊)に携わっている大江牧夫さん(74、山形県出身)は渡伯のきっかけを、こう語る。 現在は、耕地から約30キロ離れたサンタ・イザベルに夫人のとくえさん(73)と2人暮し。移住地は11年ほど前から長男の明さん(49)夫妻に任せているが、月に数回は生産物の生長状況を見にいく生活を続けている。 戦後の海外移住の最盛期だった1957年、山形県内でもその啓蒙活動が実施。大江さんは米作移民としてアマゾンに入る決意を固めた。県知事の媒酌により地元メディアが主催するブラジル移住のための合同結婚式を他の4家族とともに行い、同年5月に海を渡った。 「失敗してもいい。若い時分に、とにかく思ったことをやってみたかった」と大江さんは、ブラジルの大地での生活に大きな希望を抱いていた。 しかし、実際に耕地に入植してみると、周りは見渡す限りのジャングルが広がるばかり。当初の話で聞かされていた区画割はできておらず、自分たちが住む家も建っていない。INCRA(農地改革院)が用意していた収容所は設備が悪く、とりあえず自分たちが住む収容所2棟を造ることから生活が始まった。 グァマ移民のほとんどが入植した低湿地帯は「バルゼア」と言われ、雨季には家の中にまで浸水する土地の低さに誰もが悩まされた。 大江夫妻も例外ではなかった。ベレンまで道路もない当時、生活に必要な足はすべて「カヌア」と呼ばれる小舟に頼るしかない。「浸水した家に舟で入っていくことも、年に数回はあった」という。 環境の粗悪さに1960年、第4次移民の19家族が集団脱耕した。だが、大江さん自身は移住地を離れることなど考えもしなかった。 「見るもの、聞くものすべてが珍しかった」 また、幼い頃から興味のあった牧畜をブラジルの大地でやることが頭の中にあった。 一方、とくえさんは他の移民同様、移住地の生活に嫌気がさす毎日。郷里の家族からも、帰国を促されていた。「いやー、帰りたかったよー」と低地での苛酷さを改めて振り返る。
| 1957年、当時の移住地で(左が大江さん、写真は大江さん提供) |
| 移住地では正式な医者もいない。大学で獣医の資格を修得していた大江さんは、4人の子供たちすべてを自分の手で取り上げた。「産湯」はいつもグァマ河の水だった。 入植から15年間をバルゼアで過した大江家族だが、その間、電気も水道もない生活を強いられてきた。雨季には米、乾季にはキャベツなどの野菜づくりを続けた。 他の移民たちが耕地を後にする中で、大江夫妻は72年にようやく移住地内の高台に移った。当時の入植者でバルゼアを出たのは大江さん家族が最後。現在、同地ではピメンタづくりを中心に熱帯果樹などを生産。91年からはブロイラーの養鶏も始めた。 長男の明さんが90年はじめから6年間、日本で出稼ぎを行い、帰伯後、移住地の農業生産を引き継いだ。静岡県内で就労した明さんは、職場でベレン出身の日系女性と知り合った。その女性は偶然にも大江夫妻の同船者の娘だった。 「明が日本に行く前はブラジル人と一緒になるんではないかとヒヤヒヤしていたが、よく日系の嫁さんを連れてきてくれた。万々歳だよ」と嬉しそうな笑顔を見せる大江さん。明さんが土地を継いでくれたことは何よりの願いだった。
【グァマ移住地】 1955年11月、日伯両政府間の協定により米作移民として日本人の入植が開始。3万2000町歩の低湿地帯を利用し、日本人が得意とする米生産技術を導入する壮大な計画だった。しかし、耕地内には生活に必要な設備が整っていないどころか、雨季には家の中にまで河水が浸かる悪環境に脱耕者が相次いだ。現在は少ない高台に移った家族たちがピメンタ(コショウ)、熱帯果樹栽培や養鶏(鶏肉)などの生産活動を行っている。(2007年10月号掲載)
|