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     移民の肖像  (最終更新日 : 2019/06/13)
佐々木克さん [画像を表示]

佐々木克さん (2014/07/09)
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 屏風(びょうぶ)、掛け軸、額装など、日本伝統の表装職人として、86歳になった今も現役で活動する佐々木克(ささき・かつ)さん(長野県出身)。サンパウロ州第1アリアンサ管内にある共同体「弓場農場」創始者の故・弓場勇氏と同船者で、同農場創設に尽力したほか、日系画家の故・間部学氏とも青年時代から懇意にしていたという貴重な経験を合わせ持つ。
 職人としての腕を持ちながら、それを伝える後継者がいないのが悩みの種だが、「知る人ぞ知る」存在として現役を貫いている。
 佐々木さんは1926年、5歳の時に両親に連れられて「はわい丸」でブラジルに渡った。信濃海外協会の宣伝を聞いた父親が「3反百姓じゃ、これからの日本には望みがない」と、家族6人でアリアンサ移住地に自作農として入植したのがブラジル生活の始まりだ。
 同船者には、当時21歳だった若き弓場勇氏がおり、佐々木家族は「弓場農場」を共に創設した。
 ブラジルでの原始林開拓生活で「このままでは、子供が猿になってしまう」と危惧した父親は1930年、佐々木さんを日本の伯父のもとに預けるために帰国させた。13歳から4年間、木工学校に通った後、東京の家具屋で職人としての丁稚奉公を3年間させられたという。
 戦時色が濃くなりだした41年1月、父親の呼寄せによりブラジルに再渡航した佐々木さんは弓場農場に戻り、日本での大工職人の腕を生かして、当時、養鶏が盛んだった同農場で孵卵(ふらん)器を作るなど貢献した。
 1956年、佐々木さんが34歳の時に弓場農場は諸事情により、「新生農場」と2つに分かれた。このことをきかっけに農場を出た佐々木さんは、当時リンスにいた間部氏を頼り、居候として転がり込んだ。
 その頃は間部氏もまだ画家として売れない時代。佐々木さんは、ネクタイの蝋纈(ろうけつ)染めを一緒に手伝ったり、間部氏の絵画の額縁などを作ったりして生活していたという。
 間部氏がサンパウロに出たことにより、親友関係にあった佐々木さんも後を追って61年にサンパウロへ。同地で寿司屋のカウンター作りや取付けタンス製造などを行った。一方で、同じ大工仲間の先輩で、当時隆盛を誇った料亭「青柳」を増築・修繕した経験を持つ日本人とも知り合った。そのため「青柳」が潰れた際には、客が「飲み代」として置いていった掛け軸の委託販売も頼まれ、今でもその一部を保有しているという。
 その頃、サンパウロ市内ピニェイロス区に木工所や店舗を構えていた佐々木さんは71年、中小企業視察の一環として戦後初めて一時帰国し、故郷の土を踏んだ。
 その後も大工・木工職人として活動してきた佐々木さんは、それまで依頼注文していた日本人の表装職人が亡くなったことをきっかけに、改めて屏風などの表装を習うために日本へと出かけた。92年、佐々木さんはすでに72歳になっていた。
 高齢になってからの修行のため、人に言えない苦労も重ねた。しかし、今では表装職人として茶道関係者などから屏風の注文を受けるなど、100%日本の材料を使用した日本の伝統工芸が、密かな人気を集めている。 
 後継者について佐々木さんは、「1人、台湾系の若いのがいるが、身体が弱くてね。誰か日本人の若い人がいたら教えてもいいけど、こればっかりは本人がやる気がないと、どうにもならないしね。今は誰も後を継ぐ人などいないよ」と苦笑する。
 今年10月には、来年の移民100周年を前にした記念イベントとして、サンパウロ市リベルダーデ区にある文化協会で総合美術展が開催。佐々木さんは、俳句と観音像をあしらった屏風を出展するなど、実用品でありながら「アート」としての作品づくりも手がけている。
 「今になって思えば、職人になって良かったと思う」と佐々木さん。現在も注文を受けながら、職人としての活動を続けている。(故人、2007年11月号掲載)


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松本浩治 :  
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