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     移民の肖像  (最終更新日 : 2019/06/13)
戸野多美代さん [画像を表示]

戸野多美代さん (2017/02/27)
戸野多美代さん.jpg
 「恨んで息子が帰ってくるものなら恨みます」―。
 マラニョン州サン・ルイスの日本食レストランで働いていた息子が市場へ買物に行った途中、自動車事故で他界した。朝八時の事故だったのに、手術を受けたのは夜の7時。明らかな手遅れである。
 現在、パラー州ベレンに在住する戸野多美代(との・たみよ)さん(77歳)の人生は、不運と縁との繰り返しのような気がしてならない。
 多美代さんは広島県仁保村の出身。同地は大正時代に太田川の砂が溜って浅瀬になり、やがて地続きになったという地域。「何代か前は、瀬戸内海の倭寇だった」(多美代さん)せいか、海外へ出るのも比較的すんなりと行けた。7人の兄弟の中には、ハワイやアメリカ在住者もいる。ブラジル移住を告げても「いつ行くの?」と聞かれるぐらいで、何の反対も無かったという。
 多美代さんは15歳の時、広島で被爆した。
 「本当はその日、広島の逓信病院へ行くはずだったんだけどね。たまたま留守番をしていたから、命拾いしたのよ」
 肺結核を患っていた多美代さんは、当時、病院通いの日々だった。予定通り、広島市内の病院へ行っていたら、今の元気な多美代さんの姿はなかったかも知れない。薪を取りに行った母親の大八車の軸ピンが外れて、必要以上に手間取り、留守番が長引いた。多美代さんの家は、爆心地から直線距離にしたら短いが、山を間に挟んでいたので、被害はずいぶんと少なくて済んだ。
 多美代さんは2005年、サンパウロ在住日本人の配慮により、在ブラジル原爆被爆者協会(森田隆会長)を通じて、ようやく日本で被爆者手帳を取得することができた。それまでは日本へ帰ったことさえなかったという。
 多美代さんが、船乗りだった夫とブラジルへ渡ったのは、1959年6月のこと。船は「あふりか丸」。朝鮮戦争終結後の不景気の頃だった。
 トメアスーに呼び寄せ移住で入植したが、ピメンタ(コショウ)の病害により、7年間いた同地を離れざるを得なくなり、サンパウロ州リベロン・プレットで野菜作りに従事した。
 「親戚の所へ厄介になっていてね。でも、親戚がその土地を売るってことになって。『放り出すのも可哀想』ということで、モジ・ダス・クルーゼスの聖母女学校と教会で、住み込みの仕事を紹介してくれたんです」
 戸野さん夫妻は、1972年から80年まで8年間、モジ・ダス・クルーゼスで過ごした。80年にベレンへ戻るきっかけになったのは、夫が高齢になり夜勤仕事が辛くなってきたから。ちょうどその頃、1人息子がサンパウロで強盗に襲われたことも重なり、ベレンへの転居を後押しした。
 ベレンに戻ってからは、汎アマゾニア日伯協会で、夫婦住み込みの管理人となる。
 「息子はね、ベレンの日本食レストランで働いていたんですよ。その後、縁あって(マラニョン州の)サン・ルイスのレストランへ行ったんですが…」
 冒頭の続きになる。レストランの主人は多美代さんに「恨んでくれるなよ」と、息子の遺体を前に言ったという。やっと返した言葉が「恨んで息子が帰ってくるものなら…」である。享年22歳。「今、生きていたなら40歳過ぎでしょうね」と肩を落す。火葬のないマラニョン州で、息子の骨をベレンに持ち帰ることができたのは、墓を掘り起こす許可が出た5年後のことだった。
 その後12年間、管理人の仕事をしていたが、ブラジルの年金と日本での船乗り時代の年金が貰えることが判明し、年金生活に入る。夫が他界後、今は半日、同協会内の図書館で働いている。
 「私ね、ベレンの事務局長には感謝しているのよ。『おばさん、暇ならバイトしなよ』って言ってくれて。私ら『学校を出た』と言っても、勉強なんて3分の1。あとは勤労奉仕で、工場で働いていた世代だからね」と自嘲するが、その記憶力と読書量は大したもの。本がどこにあって、何が面白いか、誰がいつ借りていったのか、即座に教えてくれた。
 人生に『もしも…』は無いと言うが、戸野さんの優しい声、語りを聞きながら『人生のいたずら』という言葉が、頭の中をグルグルと回っていた。(文・大久保純子、撮影・松本浩治、2007年12月号掲載)


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