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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/03/25)
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城間道子さん (2017/03/01)
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 1945年4月から約3か月間にわたって、日本本土では初めてであり、最も苛酷と言われた地上戦が沖縄の地で展開された。同県人の4人に1人が犠牲者になった激しい戦争だったと言われるが、今や当時のことを知る人々も年々残り少なくなっている。
 現在、サンパウロ市パライゾ区に在住する城間道子さん(82)。両親は鹿児島県出身だが、自身は沖縄県内で生まれたという。幼少の頃からスポーツが好きだった道子さんは、沖縄県内の女学校で陸上部に所属。卒業後は東京都の体育専門学校に進学し、数多くの生徒たちを指導してきた。
 故里・沖縄で縁談の話が持ち上がり、帰郷した道子さんは、1944年2月に夫・盛雄さん(故人)と24歳で結婚した。盛雄さんは当時、31歳。24歳で中央大学法学科を卒業後、陸軍の幹部候補生として招集。熊本県の13連隊に配属され、8年間陸軍に尽してきたが、結婚を機会に一時的に任務を解かれていた。
 その頃、戦局は厳しくなる一方で、城間夫妻が在住していた那覇(なは)でも米軍の攻撃が激しさを増しだした。同年10月10日には、俗に「十十(じゅうじゅう)空襲」と言われる那覇大空襲に見舞われ、新居は跡形もなく吹き飛んだという。
 「午前8時ごろ爆撃の音がしたので2階に行ってみると、那覇港はすでに火の海でした」と道子さんは、当時の様子を今でもはっきりと記憶している。
 その後も空襲が続き、12月には道子さんの母親とともに3人で鹿児島に疎開することを決めていた。大阪商船「開城丸」の切符もすでに購入、疎開先への最終便が出港するという間際の12月28日、盛雄さんに嘉手納(かでな)・中飛行場の中隊長として入隊要請が陸軍からあった。
 「兵隊のことだから、しょうがないと諦めました」と語る道子さんは、夫との死別を覚悟していたようだ。
 仕方なく母親と2人で鹿児島県日置郡吹上(薩摩半島西側)に疎開した通子さんたちは、戦局の情報も入らないまま、悶々とした日々を過した。
 45年3月には硫黄島が玉砕。その頃、盛雄さんは沖縄本島中西部の嘉手納で敵を迎え撃つ準備をしていたが、4月1日に米軍は同海岸から上陸、侵攻していった。
 米軍の猛攻に盛雄さんたちは撤退せざるを得ず、沖縄北東海岸の有銘(ありめ)から命からがら逃亡した。同年6月には首里城が陥落。盛雄さんは沖永良部島で終戦を迎えたという。
 鹿児島の疎開先に盛雄さんから電報が届いたのは終戦後すぐのことだった。「元気で帰る」との報を受けた時、母のあいさんは「幽霊じゃないか」と疑ったほどだった。沖縄戦の激しさは、盛雄さんの両親の命をも奪っていた。
 唯一残ったのは、道子さんの父親が戦前に施行した沖縄南部糸満市にある「南山神社」だけだった。
 その後、那覇に戻って生活を始めた城間夫妻は4男1女の子宝に恵まれ盛雄さんの意志で、58年に海を渡ってブラジルへ。盛雄さんは大学時代の法学を生かして弁護士の仕事に就いた。
 結果的にブラジルに来て良かったという道子さんは、「主人は軍人として10年近く戦地を渡り歩いたのに、戦争のことはあまり口にしませんでした。人には言えない辛いことを数多く見てきたのでしょう」と語り、「当時は戦争ですもの。皆、同じような体験をしても何も言えなかったですね」と振り返る。
 刻まれた苦い戦争体験が、今も道子さんの胸の奥に残っている。(2008年1月号掲載)
 


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松本浩治 :  
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