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     移民の肖像  (最終更新日 : 2019/06/13)
原林平さん [画像を表示]

原林平さん (2018/02/13) リオ州チングア草分け的存在の原林平さん

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(左端)
 リオ州ノーバ・イグアスー市管轄のチングアに在住している原林平(はら・りんぺい)さん(71、長崎県出身)は、同地の草分け的存在だ。渡伯すぐの1960年初頭には、コチア産業組合最初の野菜供給団地プロジェクト造成に加わり、当時のマカエ移住地(リオ州)に入植。水害で脱耕者が相次ぐ中、最後の1家族になるまで残ったが、やむなくチングアに移転してからはピーマンなど野菜栽培を広め、同地の名前を高めた。現在は「ゴヤバ(グアバ)の里」として生産を続ける次世代の活動を見守っている。
 ブラジルに渡る前、長崎の造船会社に勤務していた原さんは、日本での生活に物足りなさを感じていた。また、当時、炭坑離職者などを対象に周辺で海外雄飛の話が身近にも聞こえる中、ブラジル行きを決意。60年に「ぶらじる丸」で単身、海を渡った。
 原さんにマカエ移住地造成の話が来たのは63年。サンパウロ州タピライの茶生産団地、アチバイアの養鶏団地と並ぶコチア産業組合の3大事業の1つとして、リオ州の野菜供給団地造成が進められた。
 「それまで農業などやったこともない。当初、入植する気持ちはなかった」という原さんだが、コチア青年の友人たちに誘われ、マカエ移住地に入植した。作物はできたものの、移住地の真ん中を流れる川がことごとく増水して溢れ、生産物が水浸しとなる被害が続出した。
 脱耕者が相次ぎ、原さん家族は「借金があったため出るに出られなかった」と最後の1家族になるまで残ったが、69年にやむなくチングアに移った。リオ市内から北北西に約70キロ離れたチングアでは、同地を仕切るブラジル人の顔役に気に入られた。
 「オー、ジャポネース。チングアに来い。金はあるのか」
 「金は無い」(原さん)
 「まあいい、何とかなる」―。
 原さんは頭金だけを入れて、また借金を抱えた。
 しかし、ピーマン栽培が当たり、「マカエとチングアの借金を3年で支払った」と原さん。生きていくために、生産活動以外にもフェイラ(青空市場)などの販売も同時に行なった。
 入植当時のチングアは、現在のゴヤバの「ペドロ種」を開発した佐藤ペドロさん(71、2世)家族と2家族のみだったが、野菜を中心に良い品物ができたことが噂で広まり、移住地には自然と人が集まってきたという。
 「その頃の『負けるものか』という気持ちが、今の自分のバックボーン(支え)になっている。『やる気のある者が勝つ』という意気込みでやってきた」と原さん。80年代半ばからは10年間、リオ州日伯文化体育連盟の理事長として働き、コチア組合リオ単協理事長なども歴任した。
 「自分としては強引なところもあったと思うが、いつの間にか(長として)担ぎ出された。皆がよくついてきてくれた」とこれまでの活動を振り返る。
 1999年前には農拓協(ブラジル農業拓殖協同組合中央会)の会長に就任し、毎週のようにリオとサンパウロを往復する生活が続いたが、2005年2月下旬の総会で、残り1年の任期を残して勇退した。
 現在、チングアはゴヤバ生産が盛んで、すでに2世会長が中心となり移住地の運営を進めている。原さんは思いのある地で次世代に任せながら、ゆったりした生活を過している。(2005年3月取材、2008年2月号掲載)


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松本浩治 :  
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