大橋敏男さん (2018/02/23)
アマゾン第1回移民の大橋敏男(おおはし・としお)さん
アマゾン第1回移民(43家族と単独青年9人の計189人)で、残り少ない生存者の1人となった大橋敏男さん(90、静岡県出身)は1929年7月、家族とともに「もんてびでお丸」で神戸港を出航している。7人弟妹の長男である大橋さんは、当時まだ12歳の少年だった。 リオ・デ・ジャネイロで帰航する「まにら丸」に乗り換え、約70日かけてアカラー植民地(現:トメアスー植民地)の船着場に到着。 入植後3年して、当時の南拓(南米拓殖会社)が奨励した永年作物のカカオに見込みがないと判断した大橋さんの父親は、パラー州ベレン市近郊のサンタ・イザベルへの転住を決めた。 「アカラーは良いところだったけれども、12月頃、雨季になるとマラリアが流行ってね。熱が出て1週間経っても治らない。アテボリーナというマラリアの薬は、飲めば目まで黄色くなると皆、嫌がってね」 同地でも営農生活は向上せず、大橋さんは20歳になった時、新しい永年作物を求めてサンパウロ州内を2年間にわたって歩き回った。1930年代後半、サンパウロではカフェが生産過剰となり、値段が暴落。5000万俵のカフェが焼かれたという。カフェを焼いた煙が上がっていた当時の光景を、大橋さんはサンパウロ各地で見ている。 しかし、大きな収穫もなく、失意の思いでベレンに戻った頃には、戦時色が濃くなりだしていた。 1942年、ブラジルは日本と国交を断絶し、在留邦人は敵性国民としての扱いを受けることに。同年8月、ベレン沖でドイツ軍がブラジル人270人を乗せた客船を撃沈・死亡させた事件が発端となり、暴徒化したブラジル人がドイツ人と同じ枢軸国民である日本人の家屋や事務所を焼討ちする事件が発生。枢軸国民は暴徒からの保護という名目で、すべてアカラー移住地に軟禁された。 大橋さん家族はサンタ・イザベルにいたため難を逃れたが、同胞たちの様子が気になり、自分たちも拘束されることを覚悟して、父親と弟の3人でアカラー植民地へと向かった。 意を決して同地に着いてみると、ブラジル当局からは意外にも拘束されず、その後、トメアスーの奥地でピメンタ栽培に取り組むことになった。 6年後に待望の永年作物であるピメンタをサンタ・イザベルに持ち帰った大橋さんは、当時の国際相場高騰の影響により、大きく当たった。 その後、60年代になってピメンタに病害が入り始め、デンデ椰子栽培に切り替えるなど、一生を農業生産に注いできた。現在はベレン近郊のアナニンデウアに9人の子供の中の末娘の婿たちと一緒に暮している。 2001年、84歳の時に「自分の遺言のつもりで自分史を書くことを思いついた」という大橋さんは、汎アマゾニア日伯協会関係者たちの協力を得て、『南十字星は誠の光を』と題するアマゾン生活75年の思い出を綴った自分史のポルトガル語版を出版した。 また、05年10月には日本語版400部を改めて出版し、アマゾン移民の当初のことを知る貴重な記録として好評を得ている。 現在も月に数回は日伯協会に顔を出しているという大橋さん。 「ブラジルに来た頃は金も何も無かった。今から思えば、『俺は日本人だ』という誇りが支えてきた」と話す柔和な顔には、アマゾンで生きてきた苦闘の歴史が刻まれていた。(2008年4月号掲載、1917年6月2日生まれ)
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