大野春子さん (2018/06/10)
今では数少なくなった、明治生まれである戦前移民の1世に話を聞くことができた。 サンパウロ近郊のジュンジアイに娘と一緒に住む大野(旧姓・小野)春子さん(97、高知県生まれ、愛媛県出身)。夫は渡伯間もなくマラリアに罹り、それが原因となって45歳の若さで亡くなった。サンパウロ州奥地のチエテ移住地での農業生産活動のあと、息子たちがサンパウロ市内でチンツレイロ(クリーニング)業を行い、それらを手伝って生計を立ててきた。 9人兄姉の末っ子として生まれた春子さんは、宮司だった兄と両親が勝手に決めた相手と結婚。「顔も、ろくに知らんかった」(春子さん)という夫の繁利さんと一緒になったのが、17歳の時だった。 繁利さんは、21歳で愛媛県松山市の軍隊に入隊後、1931年の上海事変に出征。33年に軍を除隊した後、翌34年に春子さんと子供3人を連れ、構成家族のための繁利さんの従兄弟とともに日本を出国。同年3月4日、「りおでじゃねいろ丸」でサントス港に到着し、ブラジルの土を踏んでいる。 チエテ移住地(現ペレイラ・バレット)に入植した大野夫妻は、大木が倒され周辺に木の枝が散乱する同地で綿生産に励んだ。春子さんにとって一番辛かったのは、働くことよりも同県人の話し相手がいなかったこと。 「ブラジルには本当は来たくはなかったけど、その時代は主人が行くと言えば従わざるを得ませんでしたし、3人の子供を連れて付いて行くしかありませんでした」 綿作だけでは生活に困り、春子さんは幼少の頃に高知県の実家でやっていた養蚕を行うことに。しかし、当時は生糸が米軍のパラシュートなど軍事物資になるとして、「勝ち組」派からは敵視された。 「私たちは蚕(かいこ)小屋まで焼かれたりはしませんでしたが、ブラ拓(ブラジル拓殖組合)に行けば日本の情報が入ったこともあり、主人が『負け組』だったので、陰口を叩かれたりしました」 移住地での思い出として今も春子さんの脳裏に刻まれているのが、原始林に入る前の十字路で日本人の男性が来るまで馬に跨(またが)って何時間も待っていたことだ。当時、町に出るには薄暗い原始林を通る必要があり、女性独りで密林に入ると地元のブラジル人農夫などに殺害される物騒な事件が多発していたという。 春子さんはブラジルに来てさらに3人の子供を産み育て、計6人の子宝に恵まれた。繁利さんは渡伯して1年して患ったマラリアで身体が思うように動かず、当時の交通手段だった馬は気丈にも春子さんが使っていた。 「町に用事があって出かける時に、主人からは『絶対に女独りで行ってはいけない。これだけの子供がいて、お前にもしものことがあれば、俺はどうしようもない』と言われていました」 電話もない時代、自己防衛のためには、いつ来るとも分からない日本人の男性を待っているしかなかったのだった。 繁利さんは45歳の若さで亡くなり、春子さんは子供を抱えて生活に困ったが、銀行は一銭の金も貸してはくれなかった。 サンパウロに出れば仕事があると思い、移住地の第2管轄にいた日本人に相談したところ、サンパウロ市内アクリマソン区で洗染業をしていた親戚を紹介された。大人に成長していた長男と次男が約1か月間、チンツレイロの修行を行い、チエテ移住地の第1管轄で出店。その後、家族でサンパウロに出てモッカ区に改めて開店した。「家族全員で働かなければ、やっていけない」と春子さんも手伝い、一家総出で家計を支えた。 その後、春子さんは手先の器用さを利用して人形や洋服を作り、60年代後半から70年代にかけてサンパウロ市内のレプブリカ公園で販売。また、ビラ・フォルモーザ区で洋服の店を開けるなど、「母の日などは押すな押すなの盛況ぶりでした」と当時を振り返る。 娘の夫が亡くなったこともあり、10年ほど前からはジュンジアイに住むようになり、今でも刺繍(ししゅう)や飾り物を自ら制作している。 「今でも呆けないのは、手先仕事をしているから」 年齢に見合わぬ明るさが、春子さんの活動の源(みなもと)だ。(2008年7月号掲載)
|