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     移民の肖像  (最終更新日 : 2019/04/17)
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宇田初枝さん (2018/11/09)
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 パラナ州サン・セバスチャン・ダ・アモレイラの地域社会センター(セントロ・コミュニタリオ)で26年間にわたって奉仕活動を続ける宇田初枝シスター(78、長崎県出身)。長崎純心聖母会の第2回目のブラジル派遣により、1982年に渡伯し、同地在住の日系子弟を対象に日本語教育を行ってきた。
 宇田シスターは、長崎県の五島列島で4女として生まれた。両親は元々、長崎市内に在住していたが、カトリックの信仰のために五島に渡った。
 父親の良蔵さんは、五島で防虫剤に使用する樟脳(しょうのう)作りに従事し、「出稼ぎ」として度々内地(長崎市内)に渡ってきていた。
 宇田シスターが8歳の時に再び長崎市内に転住。父親は当時流行していた荷馬車の仕事に就き、生計を立てた。
 1945年8月9日、当時15歳だった宇田シスターは、ミッション・スクールの純心高等学校に通っていたが、学徒動員で三菱の部品工場で働くことに。
 「空の一角がピカッと光ったと思ったら、すぐに爆風が来て、『伏せおせ』の声で慌てて地面に伏せましたが、ガラスが割れて飛んできました。私たちは横穴の防空壕に入れられ、外の様子が気になりましたが、1時間くらいは外に出してくれませんでした」とシスターは、原爆投下時の様子を鮮明に覚えている。
 実家が心配だったが、家のガラスが割れていただけで幸いに家族は無事だった。
 原爆投下から1か月経ってから学校に後片付けに行ったが、すべて焼け野原となっていた。翌10月には学校が再開したが、戦禍の影響で3クラスあった級友たちは1クラス分の50人ほどに減少。宇田シスターたちは、毛布で学校の制服作りを行ったり、運動場で祈りを捧げながら、被災者の遺骨を焼いたりしたという。
 その頃から「シスター」になる決意を固めた宇田シスターは、志願者のための寮生活を行い、神学科を専攻した。父親は「お前がそんなになりたいのなら、やりなさい」と同意してくれたが、母親は「働いて、少しでも家計を助けて欲しい」というのが本音だった。
 18歳で同学科を卒業。長崎市内の修練院で2年間を過ごした後、現在の長崎純心聖母会に正式に入会した。
 長崎市内のミッション系中学校で教師として務めた経験もあり、ブラジル派遣への募集に「軽い気持ちで希望を出した」(宇田シスター)ところ、合格した。
 82年に現在のアモレイラの託児所に派遣されたが、間もなく地元文協の日本語学校の教師をしてほしいとの依頼があり、他のシスターと話し合いの結果、引き受けることになった。
 平日は毎日、午前・午後と学校に通った。当初は日本語教育をどのように実践して良いか分からず、サンパウロの教育機関に教えを請うたり、通信教育で日本語教師の資格を修得するなど、試行錯誤を繰り返した。
 「82年に日本語教師を始めた頃は50人近い生徒がいて、本当に忙しかった」という宇田シスターだが、2000年、70歳になったことを機会に、18年間続けた日本語教師を辞めた。
 「80歳くらいまでやれると思ったけれど、若い人にやってもらった方が良いと感じました」
 現在は託児所で、子供たちの縫い物を専門的に行い、奉仕活動を続けている。 
 「今でも日本語学校から頼まれて、毛筆で文字を書いたりすることもありますよ」と目を細める宇田シスター。「原爆で友人たちが亡くなったのに、自分が残されたことに感謝し、与えられた命を大切にして、これからも出来る限りご奉仕したい」と優しい笑顔の中にも、芯の強さを感じさせた。(2008年8月号掲載)


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松本浩治 :  
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