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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/04/15)
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長谷富枝さん (2018/11/15)
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 「長生きすると、良いこともありますよ」―。移民100周年の今年(2008年)、ちょうど100歳の誕生日を迎え、ブラジル・メディアや日系団体などから引っ張りだこの状態となっている長谷富枝(ながたに・とみえ)さん(長野県出身、旧姓・古井)。パラナ州ローランジアに在住し、去る6月22日に同地のパラナ移民センターで開催された移民100周年の式典にも家族たちとともに出席。記念の日を楽しんだ。日常では、「時間がもったいない」と趣味の川柳やレース編みを行っており、健康的な日々を過ごしている。
 富枝さんは、長野県木曽郡山口村で4人兄姉の末っ子として生まれた。子供の頃は「先生になりたい」との夢があり、19歳で師範学校を卒業している。
 ところが、1928年3月、知人の紹介を受けてブラジル行きを希望していた長谷謙一氏(愛知県出身、88年に82歳で死去)と結婚することになり、東京の力行会本部で式を挙げた。
 「兄がブラジルに行きたいと言っていたので、自分も結婚して付いて行くことは簡単に決まったのですが、両親は反対しました」と富枝さんは当時の事情を振り返る。
 同年4月に「らぷらた丸」で神戸港を出発。富枝さんは師範学校時代の知識を生かして、船内で子供たちを相手に日本語を教えた経験もある。
 サンパウロ州ミランドポリスの第3アリアンサに入植した長谷夫妻は、カフェ農園で3年働いた。その後、謙一さんがレジストロなどを回って畜産の技術を習得し、ミランドポリスで養豚組合を発足させた。その間、富枝さんは「ブラジルに来た以上、日本には帰らないつもりで来ましたが、(夫の)手伝いをしなければやっていけない生活で、日本語を教えるどころではありませんでした」という状況だった。
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若い頃の富枝さん
 謙一さんは畜産とともに食肉の加工技術も習い、加工場も造ったが、戦時色が濃くなりだすと養蚕が流行り、工場を売却した。
 戦後の46年6月、力行会関係の山之内安房氏を頼って家族10人で現在のローランジアに転住。翌47年から同地で改めて食肉加工場をつくり、71年までの24年間にわたって続けた。
 富枝さんによると生前の謙一さんは背は小さかったが、声が大きく、厳しい人だったという。その一方で、力行会の若い青年を引き受けたり、世話好きな一面もあった。
 「豪気な人で、仕事の忙しい中でも文協の会長も務め、自分で会報などもよく書いていました」
 富枝さんの娘である森岡春子さん(60、2世)は、子供ながらに当時の母親の苦労してきた姿を覚えている。家族が多い中で母親が風呂に入るのは一番最後だったこと。風呂を炊きながら、薪で煤(すす)けた外側の壁に富枝さんがチョークで書いた「夜更けて 故郷思う 風呂の中」という句を教えてくれた。
 富枝さんは現在も川柳が好きで続けており、家の中の壁には「なつかしき 思いは遥か 木曽の山」と書かれた自作の川柳が掛けられていた。
 現在「時間がもったいない」と毎日のように趣味のレース編みをしているという富枝さんは、身体的な問題は特に無く健康そのものだ。今年5月に100歳を迎えたことで、地元婦人会をはじめ、文協や市役所などから立て続けに表彰されている。
 「100歳になると、こんなに皆さんから大事にしてもらって、長生きすると良いこともありますね」と富枝さん。「(表彰式の際に出席者からの)握手が長いこと途切れなくて、困りました」と笑顔を見せていた。(2008年9月号掲載)
  


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