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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/04/22)
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戸塚マリさん (2018/12/28)
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 「『死ぬまで元気にいること』が私のモットー」―。
 舞踊家として、フラメンコや高齢者向けの健康体操を毎日のように教えている戸塚(とづか)マリ(旧姓・八木万里子)さん(中国・北京市生まれ)は、年齢を感じさせない若々しさでこう語る。
 父親の八木繁雄さん(故人)の家系は富山県で代々「御殿医」として仕え、繁雄さん自身も医師として継いだが、寒い富山が嫌で南米移住を夢見ていたという。しかし、移住の条件が整わず、戦前は中国に行く手段しかなかった。
 北京市で生まれたマリさんは、繁雄さんが同地で大きな病院を築いていたことから幼少時代は比較的裕福な暮らしぶりだったが、第2次世界大戦の影響で日本人は「敵国」扱いされ、病院施設は接収。一転して厳しい生活を強いられた。
 終戦後1年して家族で日本に引き揚げ、山口県の仙崎を経て親戚を頼って東京へ。マリさんは15歳になっており、当時、日本で唯一の職業バレエ団と言われた「小牧バレエ団」に入団した。
 1950年代になり、繁雄さんがマリさんの母と弟妹を連れて念願のブラジルに移住することに。マリさんは10年間バレエ活動を続けたが、膝を痛めて退団。その後、日本人として初めて「クアドロ・フラメンコ」の舞踊団を立上げ、日本全国で公演を行っていたため、単身日本に残った。
 マリさんは後輩の踊り子たちから「寮母さん」と呼ばれつつ、恋愛問題や食事など彼女たちの世話をみながら各地での公演活動を続け、一時は宝塚歌劇団出身の歌手だった故・宝とも子さんたちと一緒に興行も行っている。
 そうした中、北海道釧路での公演で知り合ったアイヌ人の戸塚ユポさん(77年に50歳で死去)と結婚した。35歳の時だった。
 一方、繁雄さんはブラジルで医師の正式な免許が下りず、結局は10年して日本に帰国した。その際、マリさんは父親から「ブラジルへ行って住んだらいい」と勧められたという。
 「その頃は子供が(北海道の)小学校に行っていた時期で、『お前は何人だ、と言われたから、俺はニンジンだい、と言ってやったんだ』と笑って帰ってくるのね。北海道ではアイヌは下に見られることもあって、それじゃあブラジルに行こうか、ということになっちゃったのよ」とマリさん。狭い日本より、幼少の頃から親しんだ大陸文化に肌身が合っていたとも。
 73年2月14日、横浜港から出港した最後の移民船「にっぽん丸」には、一般の観光客も同船していた。
 「お陰で良い待遇だったけど、私は船酔いがひどく、ずっと寝たきりだったわ」
 北海道で有名な彫り物師だったユポさんは、木型工として工業移民の名目でブラジルに渡った。ユポさんは、ブラジルに当時進出していたデパート・グループの「ヤオハン」で働くことが決まっていたが、朝礼など堅苦しい雰囲気が嫌で数日後に退社。仕方なく日本から持って来た資金を食いつぶして生活していたが、それも1年間で底を突いた。
 仕方なくマリさんは、布団屋のアルバイトに出ることを考えたが、そうした時にユポさんに木彫りの仕事が入ってきた。マリさんも日本でバレエをやっていたことがクチコミで伝わり、安価で教えてほしいとの依頼が来るようになった。
 74年からサンパウロ市ピニェイロス区のピラチニンガ文化体育協会でタンゴやフラメンコを教えているというマリさんは今年(2008年)で77歳。北京で15年、日本で約25年、ブラジルで35年の生活を経て、今なお精力的に4つの教室でフラメンコをはじめ、健康体操を週末以外に教えている。
 「舞台でみっともなく踊るなら、踊らない方が良いけど、老人と感じさせないうちは続けたい」 
 マリさんの前向きな人生観を感じさせられた。(2008年11月号掲載)
 


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松本浩治 :  
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