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     移民の肖像  (最終更新日 : 2019/06/13)
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土屋レイさん (2019/01/03)
2008年12月号土屋レイさん.jpg
 「子供の頃は身体が弱かったけれど、ブラジルに来てからは大病などしたことない」―。2008年11月22日に米寿(88歳)を迎えた土屋(つちや)レイさん(北海道出身、旧姓・河内)は、老人会や歩こう会にも積極的に参加するなど、気丈な生活を送っている。南拓(南米拓殖会社)12回移民として、アマゾン地域にコショウをもたらした臼井牧之助(うすい・まきのすけ)氏が移民監督として率いた「はわい丸」に家族で乗船し、パラー州アカラー(現・トメアスー)をはじめ、ブラジル各地を転々とした経験を持つ。
 レイさんは1933年、10人家族6人兄姉の次女として「はわい丸」でブラジルに渡った。当時12歳の少女だった。
 父親の栄一郎さんは、北海道時代には呉服屋も経営し、その後は役場にも勤めていた。札幌の新聞広告に南拓12回移民の募集があり、すぐに申込んだという。
 「私は外国に行けるというので、喜んでブラジルに来ました」とレイさん。船内には、アマゾン地域にピメンタ・ド・レイノ(コショウ)をもたらしたことで有名な臼井牧之助氏が輸送監督官として乗船していた。
 リオで船を乗り換え、パラー州ベレンの収容所で数日泊まった後、小型船で一晩かけてアカラーに辿り着いた河内家族は、現在の十字路(クワトロ・ボッカス)の手前1キロほどの場所に入った。
 当時すでに病院や学校はあったというが、「周りは原始林ばかり。マラリアが恐ろしくて、2か月ほどで出た」(レイさん)という。
 ベレンから20~30キロ離れたカッパネマに転住した河内家族は、「砂地で土地は良くなかった」が同地でミーリョ(トウモロコシ)、落花生、フェイジョンなどを栽培して生計を立て、8年ほど暮らした。
 20歳になったレイさんは日本人の紹介により、南拓5回移民で9歳年上の土屋一男さん(鹿児島県出身、1999年に87歳で死去)とベレンで結婚。パライーバ州ジョアン・ペッソーアの近郊地に移り、野菜作りを行った。
 家族はカッパネマに留まり、現在でも同地に甥たちが在住しているという。
 ジョアン・ペッソーアでは、葉野菜をはじめ、大根、キャベツなど「気候が良くて何でもできた」そうだ。
 しかし、周りに日本人家族がおらず、一緒に入植した残り4家族もそれぞれに同地を離散。土屋夫妻は、子供が増えたこともあり教育面を考慮して、リオ州のカンポ・グランデを経て、同州イタグアイに転住。トマト作りを行い、レイさん自身も夫の手伝いに励んだ。
 戦後の1950年、レイさんの兄たちがパラー州ベレン近郊のコッケイロでピメンタ作りをしていたこともあり、レイさんは再び家族でベレンへと向かった。
 ベレンでレイさんは、トメアスーなどから街に出てくる日系子弟を対象に下宿屋を経営。義母にも手伝ってもらい、「多い時で10人は預かっていた」という。
 「その頃、子供たちは全員サンパウロで勉強していたし、私にとっては一番きつい時でした」
 82年、長男がサンパウロを拠点に電気技師として働いていたこともあり、サンパウロ市へと出た。
 夫の一男さんは当初、サンパウロに来ることを嫌がったが、その後は「住めば都」とばかりに農業をやめ、家事などを積極的に手伝ってくれたという。
 現在は「毎日、朝はカフェを沸かして、オートミールを食べるのが日課で、その後は100マス計算など頭の体操を行っていますよ」というレイさん。サンパウロ市南部に娘と2人で住み、冒頭の言葉のように、元気な生活を送っている。(2008年12月号掲載)
 
 


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松本浩治 :  
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