諸富寅雄さん (2019/01/17)
パラー州ベレンに滞在中、お世話になった諸富英昭(もろとみ・ひであき)氏の父親である諸富寅雄(とらお)さん(94)に話を聞くことができた。 寅雄さんは1915年当時、日本軍の統治下で現在の韓国・釜山(プサン)近くの全羅南道(ぜんらなんどう)という場所で生れた。その頃、同地には約200家族の日本人が居住し、寅雄さんは両親たちと梨や桃などの果樹生産を行っていた。 同地でクニエ夫人(92)と結婚したが、戦時色が濃くなりだし、24歳の時に龍山野砲(りゅうざんやほう)第26連隊の召集を受けた寅雄さんは、中国北部の山西省を中心に1年9か月にわたって転戦することになった。 「上司の命令で転戦していた時は何とも思いませんでしたが、(任務を終えて)帰る日が決まったとたんに怖くて、外地に出たくないという気持ちになりました」と寅雄さんは当時の心境を振り返る。 45年に終戦となり、現地召集された寅雄さんは家族より一足先に父親の実家の福岡へ引き揚げ。1か月後、混乱の中、家族が大変な苦労をして日本に引き揚げたことを後で知らされた。九州各地の開拓団を探し回り、遠縁の親戚が、ある開拓団の事務局長だったことから、熊本県菊池郡津田村(現在の菊陽町)を世話してもらい、1町歩を譲り受けたという。 寅雄さんは当時、30歳になっていた。 同地で稲作、麦作、サツマイモなど農業生産活動を行っていたが、41歳の時に転機が訪れた。寅雄さんは村の税金申請を真面目に行っていたが、商業学校を卒業したばかりの若い担当職員の「貴様」呼ばわりする高慢な態度に嫌気がさし、「こんな日本に居るべきじゃない」とブラジルに渡ることを決めた。 また、戦前に実弟の八治さんがトメアスーに入植しており、「呼び寄せたい」と言って来ていたことも大きかった。トメアスーにピメンタの苗を持ち込んだことで有名な故・臼井牧之助氏は戦後にも同地を訪問しており、八治さんは戦後の日本の状況を聞き、寅雄さんにブラジルに来るよう臼井氏に伝言を依頼。兄への渡航費用を託した経緯があったという。 クニエ夫人からは「せっかく肥沃な(熊本の)土地を手に入れて、ようやく安定した矢先になぜブラジルに行くのか」と反対されたが、寅雄さんは家族を連れて54年に「あめりか丸」で海を渡り、同じトメアスーの中心地から6キロほど離れたブレオ地区に入植した。 入植して弟の農園でコロノ(契約農)として5年間生活した後、独立して7、8年くらいかかってようやくコショウの木を4000本までに増やしていたが、根腐れ病にやられ、苦労して植えたコショウは数年で全滅した。 ブラジル人の農業専門家からマラジョー島でココ椰子ができると聞き、トメアスーの5家族が一緒になって移転。島の「ソーレ」という港町で、雨季には地下水が地面ぎりぎりのところまで上がる土地の中でパイナップルとココ椰子を3000本ずつ植えた。 しかし、初めての収穫を直前に控え、椰子園の隣に住んでいたブラジル人が伐採のために自分の耕地に火を点けたところ、寅雄さんの椰子園にも飛び火し、またも全滅してしまった。 仕方なく2年後に再びトメアスーに戻ったが、生産物に病害が出たことをきっかけにノーバ・チンボテウアに出て活路を求めた。同地でのコショウ生産が軌道に乗り、最高の収穫量は年間に42トンにも及んだことがあったという。 その後、76年に孫の教育のためにベレンに移転したが、ノーバ・チンボテウア時代にもコショウが病害で全滅したことが農業生産をやめるきっかけとなった。 78年、寅雄さんは24年ぶりに日本に一時帰国することができた。当時、息子の英昭さんが熊本大学付属病院などで医学留学していたこともあり、寅雄さんは息子に会うために日本に行きを決め、約2か月間滞在した。 朝鮮、日本、ブラジルと3つの国での生活を経験し、現在はベレンでゆったりした暮らしをしている寅雄さん。「ブラジルに来ることができて良かった。現在の生活に満足しています」と充実した表情を見せていた。(故人、2009年1月号掲載)
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