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マツモトコージ苑
     移民の肖像  (最終更新日 : 2019/06/13)
根本三郎さん [画像を表示]

根本三郎さん (2019/01/29)
2009年2月号根本三郎さん.jpg
根本兄弟。左が三郎さん
 海外の邦人社会で世界最大と言われるサンパウロの中でも、とりわけ日本のイメージが色濃く残るリベルダーデ区の東洋人街。かつては「日本人街」として活況を呈したが、現在では中国系、韓国系などの台頭により、日本人・日系人の活動も右下がり傾向になっていることは否めない状況となってきている。
 そうした中でも同地区で営業活動を続け、エスツダンテ街70番に店を構えているのが「根本めがね店」。茨城県出身の根本三郎(ねもと・さぶろう)さん(86)と四郎(しろう)さん(81)の兄弟2人で50年間にわたって経営している、日本人第1号の眼鏡屋店だ。 
 「もんてびでお丸」に乗船し、1930年9月28日にサントス港に着いた根本家族は、サンパウロ州モジアナ線サンタルシア耕地のカフェザル(コーヒー農園)にコロノ(契約農)として入った。
 しかし、三郎さんの妹が麻疹(はしか)で亡くなったことをきっかけに、アララクアラ線カタンヅーバ近くの日本人入植地「ボア・ソルテ」に転住した。
 渡伯当時8歳だった三郎さんは、父親の綿作りなどを手伝いながらも、洗染業(洗濯屋)を行っていた従兄妹の呼寄せにより、兄姉の中でも逸早くサンパウロへと出ることに。自ら洗染業に従事して覚えながら、戦後間もない47年頃、セントロ地区に独立して開業。両親と兄姉たちを呼び寄せた。 
 当時、洗染業は景気が良かったが、その頃のアイロンは、炭を入れて使用する重さが5キロもある代物。身体の小さかった三郎さんは体力的に参ってしまい、スペイン人が経営していた眼鏡のフレーム(枠)を作る工場で働くことになった。
 その頃から、「将来的に自分の店を持って独立したい」と思っていた三郎さんは、眼鏡屋の経営を思い立った。
 「当時、サンパウロで一番大きな眼鏡屋だった」(三郎さん)という「ア・エスペシャリスタ」という店舗で修業を兼ねて6年間働き、資格免許を取得した。
 弟の四郎さんも数年後に眼鏡屋の免許を取得。58年、リベルダーデ広場に隣接するビル内に小さな店舗を借りたのが、「根本めがね店」の始まりだった。
 その頃は日本人の眼鏡屋は珍しく、日本語で応対できる店舗として得意客が増え始めた。
 「まだ、エスツダンテ街も今のように賑やかではなく、リベルダーデ広場も草木が茂っていたよ」と三郎さん。その後、「眼鏡屋は儲かる」との噂が広がり、5、6年で日本人の眼鏡屋が急増したという。
 特に三郎さんが「景気が良かった」と、しみじみ語ったのが、60年代のアデマール・デ・バーロス州知事の時代。
 「その後にインフレが来て、その先からが、ややこしい時代になった」
 70年、根本兄弟は現在のエスツダンテ街に念願の「自分たちの店」を購入。以来、現在も月曜日から土曜日の週6日間、午前8時から午後6時半まで(土曜日は午後1時まで)地道に働いている。
 60、70年代のような活況は無いが、今も日本語で応対できる店として、主に日本人1世の高齢者が行き来する。
 時代の波が押し寄せる中、三郎さんは「これから先は(東洋街が)どう変わっていくのか分からんね。でも、こればっかりは仕方が無いね」と、どことなく寂しそうだ。
 「僕らの生活は特に変わったこともない、平凡な毎日ですよ」と語る三郎さん。その一方で書道や墨絵などの趣味を持ち、旅行なども楽しんでいるという。
 「自分は(酒は)飲まないけれど、色んなところに顔を出して交流していますよ」とも。真面目な中に見せる明るい笑顔が輝いた。(2009年2月号掲載)
 
 


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松本浩治 :  
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