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     移民の肖像  (最終更新日 : 2019/04/17)
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崎山美知子さん (2019/02/04)
2009年3月号崎山美智子さん2.jpg
 「海外殖民学校」建設の志を持ってアマゾン地域マウエスに入植した故・崎山比佐衛氏が義父にあたり、自らもマラリアに罹りながら同地で45年間過ごした経験を持つ崎山美知子(さきやま・みちこ)さん(90、旧姓:神園(かみぞの))。
 「アマゾン 日本人による60年の移民史」によると、崎山比佐衛氏(1941年、67歳で死去)は1914年、南北アメリカを踏破。日本に帰国後は移民教育の必要性と人材養成のために東京都に「海外殖民学校」を創設。32年、分校設立を目的に一族でブラジルに渡り、アマゾナス州東部のマウエスに入植した。
 美知子さんの父親・神園萬助(かみぞの・まんすけ)さんは若い頃から海外志向が強く、日露戦争終結後、日本語教師として現在の北朝鮮に渡った。
 19年、現在の韓国テグ(大邱)で生まれた美知子さん(本籍は鹿児島県)は、8歳の頃に家族とともに「安健(あんこう)」に移転。比佐衛氏の殖民学校構想を伝え聞いていた長兄が次兄とともに30年、日本を経由して学校建設の先発隊としてブラジルに渡った。その影響を受け、家族で日本に引揚げたのが36年2月。両親の故郷である鹿児島に行く間もなく、神園一家は同年2月、「らぷらた丸」で神戸港を出港した。
 美知子さんには「ブラジルに行ったら、こういう人が待っている」と親が決めた許婚がいた。それが、後の夫となる比佐衛氏の3男・崎山忍さん(81年に69歳で死去)だった。美知子さんは当時18歳。マウエスではグァラナやマンジョカ芋を植える単調な生活が続いた。
 「小さい時から親に『ブラジル、ブラジル』と聞かされ喜んで付いて行きましたが、マウエスに着いた途端に嫌になりました。ファリーニャの食事が慣れなくて喉に引っかかり、白いご飯が出てくる夢をよく見ました」
 しだいに生活にも慣れた頃、マラリアが猛威を奮い、現地人でさえバタバタと倒れていった。美知子さん家族もマラリアに罹病。医者もいない中で薬の「キニーネ」を交代で打ち合い、動けるものが助け合うという悲惨な状況だった。
 あまりの酷さに、マウエスから約30キロ離れた「ルゼア」に転居。同時期にマラリアで倒れた比佐衛氏は、マウエスでの学校建設が目的だったため、忍さんたちの転住を快く思わなかった。
 ルゼアに移ってからも美知子さんはマラリアで寝たり起きたりの生活。何もない場所で欲しいものは自分たちで考え、作るしか手段がなかった。
 「釣りに行った父(萬助氏)が、『カジュランナ』という熟すと赤くなる実を魚が食べているのを見て、毒はないと判断したんでしょうね。その実を塩に漬けておくと、梅干と同じような味になり、よく食べていました」と美知子さんは、当時の様子を振り返る。また、「ジャランキー」と呼ばれる川魚の身をほぐして「カツオ節」代わりに使ったり、山芋で「柏餅もどき」も作ったことがあった。
 「昔はジャランキーの産卵期になると川いっぱいに群がり、それをワニが追いかけてくるために川一面に真っ白な飛沫(しぶき)が見えたんですが、それはもう本当に凄かったです」
 57年頃、「アマゾンにいたらカボクロ(土着民)になってしまう」と子供たちの教育を心配した崎山夫妻は、2人でルゼアに残りながら、子供たちをサンパウロなど都会に出させた。
 決して裕福とは言えない環境だったが、忍さんはその間、奥地で物流のない生活を送っているブラジル人のために自ら小型船を購入。約30年間にわたって物々交換を行ってきた。
 81年5月、忍さんが亡くなったことをきっかけに美知子さんは子供を頼ってサンパウロへ。それまでの周りに日本人がいない生活から一転、心の許せる友人も出来、福祉団体活動などにも積極的に参加してきた。
 現在は俳句や短歌なども行う美知子さんは「今となっては、もうマウエスに戻りたいとは思いませんね」と率直な思いを語る。美知子さんにとって、マウエスは夫と暮らした思い出の地であるとともに、孤独との戦いの場所だったのであろう。(2009年3月号掲載)
 


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松本浩治 :  
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