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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/04/15)
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新国とみさん (2019/02/10)
2009年4月新国とみさん2.jpg
 「3回結婚したけど、3回とも主人がいなくなってしまってね」―。シャキシャキした口調で屈託なく話すのは、サンパウロ州インダイアツーバに住む新国(にっくに)とみさん(91、宮城県出身)だ。25歳で父親たちと樺太に渡り、日本に帰国後に3人目の夫と別れてからも父親の遺志を引き継ぎ、戦後、改めてブラジルへと渡った。
 仙台市から20キロ離れた山奥で、新国権十郎さんの長女として生まれたとみさんは、親が決めた1回目の夫とは「あまり好かんかった」と別れ、2番目の主人は徴兵されて死別した。
 分家して宮城県で小さな百姓をしていた権十郎さんは、ブラジル移住という夢を抱きながらも構成家族ができずに、当時は日本領だった樺太に、とみさんたちとともに1942年に渡った。その頃、日本国内での女性の平均月給が25銭。樺太では月に240円という高賃金がもらえたという。
 西海岸側の恵須取(えすとる)という場所で妹とともにパルプ工場の材木をトロッコで押して拾い集め、川に流して運ぶ仕事をしていたとみさんは、大家の勧めで3人目の夫となる次郎さん(故人)と結婚した。
 「もう結婚はしないと思っていたんだけど、お互い子供もいて生活そのものは大変だったしね。婿になるなら、ということで一緒になったのよ」
 新国家族は、まとまった財産を貯めたら故郷に帰るという目標があった。が、権十郎さんが材木を運んでいる際に大怪我をし、「もう1年、もう1年」と働いているうちに終戦を迎え、ロシア人が樺太に侵攻。港から1キロ離れた海上からの艦砲射撃の威嚇に、とみさんたちはその場を立ち退かざるを得なかった。
 汽車が通っている東海岸まで父親と妹、とみ夫婦は子供を背負って夜通し歩き続けた。戦後、樺太で儲けた金は10分の1の価値に下がり、帰国するまでの3年間で「虎の子」の貯金を使い果たした。
 結局、48年頃に日本に引き揚げたが、「丸裸の状態」(とみさん)で父と妹は網走で漁業に従事。とみ夫婦は旭川へ。53年までの5年間を過ごしたが、宮城県の開拓村に居た妹から「姉さんに手伝ってほしい」と呼寄せられ、夫とともに故郷に帰った。
 同地で農業や炭焼きなどをして生計を立てていたが、父親が亡くなり、分家していたために本家からは遺産ももらえず困っていた。そうしたところ、出稼ぎに行ったりしていた3番目の主人も行方をくらまし、戻って来なくなった。
 「働けば元通りの生活になる」と、とみさんは親戚の猛反対を受けつつ、気丈にも父親が夢見たブラジルへの移住を決意。父親の末弟の息子と自分の娘を結婚させて構成家族を作り、子供らと5人で61年に海を渡った。
 サンパウロ州ピエダーデの日本人農家のもとで3年契約でバタタ(ジャガイモ)生産を手伝い、その後独立してパトロンから借りた土地で作ったバタタが当り大儲け。20アルケール(48ヘクタール)の土地を購入した。しかし、翌年はバタタの種が腐るなど売り物にならず、再び丸裸に。その後、バラの花の接ぎ木や桃作りなどで生活も少しずつ安定し、現在はインダイアツーバ市で息子の良二さん夫妻とともに暮らしている。
 とみさんは75年に14年ぶりに日本に帰ったのを機会に、これまで6回帰国している。
 良二さんは現在、植木関係の仕事に携わり、数年前には母のために自宅に本格的な日本間を造り、高齢になった母への孝行を実践した。
 「ブラジルでは米のご飯が食べられるし、冬が無いことが私にとっては有難かった。ここに来てみてブラジルが余計に好きになった」
 とみさんは、女手一つで育ててきた息子たちとしばしば口論しながらも、今は充実した毎日を送っている。(2009年4月号掲載)


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松本浩治 :  
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