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     移民の肖像  (最終更新日 : 2019/04/17)
山田元さん [画像を表示]

山田元さん (2019/02/20)
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 1929年、第1回アマゾン日本人移民としてパラー州アカラー植民地(現:トメアスー)に入植した山田元(やまだ・はじめ)さん(81、広島県出身)は現在、同地クワトロ・ボッカス(十字路)の交差点から程近い「ピメンタ(コショウ)御殿」に住んでいる。80歳を超えているとは思えないほど背筋がピンと伸び、若々しい姿が印象的だ。
 ピメンタ景気全盛の頃の54年に建てたという2階建ての家屋は、ノコギリで手引きした木材をカンナがけさせたとし、長年にわたって磨き上げられた床は黒光りしていた。
 父親の義一さんは、広島県の「猫の額のような土地」(元さん)で農業をしていたが、将来性が無いとしてアマゾンに渡ることを決意したという。
 元さんの記憶が鮮明にあるのは、10歳頃からのこと。当時のアカラー植民地では米やマンジョカ芋のほか、南米拓殖会社の指導で野菜など日銭になるものを植え、ベレンに出荷していたが、「最低の生活」だった。医療施設も整っていない中、「1か月に1回はマラリアに罹(かか)って40度の高熱にうなされ、生きているのが不思議なくらい」という状況だった。
 元さんは同地で小学5年生までブラジル学校に通ったが、中学はベレンにしかないため、経済的余裕の無さから行けなかった。午前中は学校に行き、午後からは家の野良仕事を手伝ったが、父親は軍隊上がりの厳しい性格で、「こき使われた」という。
 そうした中でも野球が盛んで、元さんも少年時代から野球にのめりこんだ。
 「十字路に小さな売店があって、お使いを頼まれて行くと、そこに同年代の友達がいて一緒に野球をやって遊んでしまう。その売店に行くのが楽しみでね。母親からは毎回『早く帰って来なさい』と言われても、どうしても1時間くらいは帰って来れない。普段は厳しい父親も野球が好きだったから、けっこう大目に見てくれましたね」
 母親のスエノさんは社交的で、食堂などの店と作物などの取引を行っていたため、地元ブラジル人の知り合いも多かった。そのため、戦争が始まり日本人が敵性国民と見なされても、山田家はブラジル人の官憲からも比較的寛大に振る舞われた。
 しかし、それでも日本人が公の場所で集まって話することなどはできず、「8割近い日本人が牢屋に入れられた」と元さん。当時、ベレンの町に住んでいた日本人はアカラーに強制退去させられ、山田家でも『高島』『渡部』という2家族を引き受けた。
 気丈だった母親が心臓麻痺で48歳の若さで亡くなり、元さんは、親日家のブラジル人支配人の家で下働きをしていた豊江さん(旧姓・今村、2007年に80歳で死去)と互いに17歳の若さで入籍。翌46年5月に披露宴を行った。
 1950年代後半はピメンタ景気の全盛期で、平均4、5万本を植え、年間収量は120トンに上り、従業員も120人くらい使っていた。土地面積は全部合わせて250町歩ほどあったという。農作業の合間に、好きだった野球にも更に力を注いだ。チームでは「6番ショート」が定番で、キャプテンも務めた。
 70年代前半には、ピメンタが病害を受け、カカオやアセロラなどの生産に切り替えた。しかし、「農業はやればやるほど苦しくなる」時代となり、2000年には本格的な農業には見切りを付けた。
 07年4月にトメアスーの西本願寺の住職をつとめていた坂口陞(のぼる)さんが亡くなり、その後を元さんが管理している。
 20年ほど前に、渡伯後初めて日本に一時帰国し、広島県の実家を自分の目で見た際、「こんな所にいたらどうしようもない。父親たちがブラジルに行きたがった理由がよく分かった」という。
 「トメアスーは日本人の集団地で、結果的にはこちらに来て良かったと思う」
 今年(2009年)、入植80周年の節目の年を迎えて、元さんはそう実感している。(2009年5月号掲載)


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松本浩治 :  
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