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     移民の肖像  (最終更新日 : 2019/06/13)
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栖原信子さん (2019/03/15)
2009年6月号栖原信子さん1.jpg
 ADESC(農協婦人部連合会)の指導員として活動している栖原郁子マリーナさんの母親にあたる栖原信子(すはら・のぶこ)さん(85、和歌山県出身)。サンパウロ州バストスで長男家族と住み、サンパウロにも度々、足を運んでいる。
 信子さんは1930年頃、5歳の時に「らぷらた丸」で渡伯。構成家族は両親の他に、自身より10歳も年上の許婚(いいなずけ)が一緒だった。
 祖父時代に北海道開拓に貢献したとし、以前は「吉岡」という姓だったが、和歌山県栖原村の「栖原」という姓を「お上(かみ)」から与えられた。
 亡夫の清(きよし)さんは、ブラジルに着いた当初は15歳。旧姓は「岡崎」と言い、一人娘の信子さんが19歳になった時に結婚した。
 聖州バストスに入植した当時は、まだ収容所が出来上がったばかりだった。信子さんは収容所時代から、当時のブラジル拓殖組合の副支配人だった故・松本高信(たかのぶ)氏に可愛がられ、「(爪先などから入った)ビッショ(虫)なんか、よく取ってもらいました」と回想する。
 松本氏は戦時中、敵国民として監獄に入れられ、配給されるパンで牌(パイ)を作り、仲間とともに麻雀をしていたエピソードもあるという。
 山を伐採し家を建てる際、1家族だけでは寂しいので、他の2家族の入植者とともに「長屋」を協働で造った。父親である義一さんの智恵だった。
 義一さんは70年代、バストス文化体育協会の会館づくりに尽力し、他の日本人とともに寄付集めに奔走した。その貢献が認められ、86歳で惜しまれつつ亡くなった時には、基本的に現役会長が死去した時にしか適用されない「文協葬」が行われている。
 信子さんは小学校を卒業後、畑仕事の手伝いなどもしていたが、16歳の頃にサンパウロに出て、故・佐藤初江(はつえ)氏の料理学校や裁縫学校にも通っていた。
 「本当は上級学校に行きたいと思っていたんですけど、(許婚として長年待ってくれていた)主人に遠慮してね」と信子さんは、清さんとの結婚を選んだ。
 清さんは文協の役員やコチア産業組合の理事を行う傍ら、柔道に力を注ぎ、地元バストスでも強豪選手として認められていた。
 信子さんは1女3男を授かり、子供たちが育ってからバストス連合婦人部に入った。当時、連合婦人会長はブラ拓初代支配人だった谷口章(あきら)氏の夫人が務め、勢力があったという。
 信子さんも養鶏や綿作などの農業活動の合間に婦人部活動に参加し、芝居や踊りなど楽しんだ思い出がある。地元芸能祭では、信子さんの発案で録音機に劇用の音声を入力して芝居を行った。現在では当たり前のことだが、当時は録音機そのものが珍しい時代で、拍手喝采を浴びた経験も持っている。
 その後、信子さんはコチア組合の婦人部にも入り、年に1回の会合でサンパウロに出たり、旅行でサントスに行ったりと充実した生活を続けた。
 しかし、両親や夫を亡くしてからは婦人部に行く気力が無くなったという。
 「最近は日本のテレビばかり見て、ブラジルのこともほとんど分からないようになってしまった」と笑う信子さんだが、サンパウロで活動する長女のマリーナさんとバストスで一緒に住んでいる長男の重剛(しげお)さん夫妻の愛情を受けながら、日々を過している。(2009年6月号掲載)


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