倉内お玉さん (2019/04/11)
サンパウロ州ノロエステ線チエテ移住地(現:ペレイラ・バレット)のウニオン区で少女時代を過ごした倉内(旧姓・東)お玉(たま)さん(85、和歌山県出身)。夫の孝一(こういち)さん(89、秋田県出身)と結婚して、2009年で64年を迎えた。 1929年6月、「博多丸」で父母、兄姉たち9人とともに5歳で渡伯したお玉さんは、チエテの町から1キロ半の距離にあったA区に入植。父親たちはカフェ栽培をはじめ、米作りなどの雑作や養蚕なども行った。その後、A区とB区が合併してウニオン区となり、同地の尋常小学校に6年生まで通ったお玉さんは卒業後、家事手伝いをして働いた。 「10歳頃から畑仕事も手伝いましたけど、草に付いている虫が恐くて、家でご飯炊きなどやらされてたんです」 ウニオン区での生活は苦しみばかりではなかった。運動会や演芸会など青年たちが中心になって行い、週末には剣道や柔道などの大会もあり、入植祭も盛況だった。その中でも、子供たちの興味を誘ったのが巡回シネマ。「『肉弾三勇士』だったか、戦争映画を弁士がしゃべりながら見る時代よ。父は、シネマが来るとお金がかかるから言うて、いつも渋い顔をしてたね」と、お玉さんは当時の生活を振り返る。 17歳になった頃、父親の友人で町でホテルを経営していた日本人から依頼があり、働くことに。お玉さんの他にも同年代の日本人女性がいた。グワルダ・ナップ(手拭き)にアイロンをかけたり雑用仕事を行う中で、今度は同じ和歌山出身の日本人から裁縫学校に行くことを勧められた。 洋裁学校に通っていた頃、近くの製材所で働いていた孝一さんの弟たちを通じて本人と知り合い、45年2月に結婚。孝一さんが暮らすベラ・フロレスタ(町から約20キロ)に引っ越した。お玉さんが21歳の時だった。 孝一さんは同地で綿作りを中心に農業生産を営んでいたが、48年にサンパウロに出ることになった。そのきっかけは、孝一さんの父親・清さん(79年に88歳で死去)が農業生活に嫌気がさし、一刻も早く町に出たいとして孝一さんと口論になったためだった。 「その当時は綿作りも調子が良く、本当はもう1年ビラ・フロレスタに居たかったんじゃが、親父が『サンパウロに行く』と言って聞かんでの。親父とは死ぬまでケンカばかりしよった」 町に突然出ても仕事がないため孝一さんは、サンパウロのカシンギ区で日本人の世話になりながら花作りもした。その後、ボスケ・ダ・サウーデでキタンダ(八百屋)を開けた。しかし、一本木な性格の孝一さんは品物を値切る客と口論となり、店をたたむことにした。 ブラブラしている時に親戚から「南米銀行で働かないか」との声がかかり、孝一さんはその後、パウラ・ソウザ支店で33年間働き通した。 チエテで3人、サンパウロに出てきて3人と男の子ばかり計6人の子供に恵まれた倉内一家。父母と孝一さんの妹も同じ屋根の下に住み、11人の大家族。その間、お玉さんは家計を助けるために毎日夜遅くまで内職作業を行ってきた。 「その頃はリベルダーデで日本映画もやっていたけど、結局、1回も連れていってもらったことはなかったね」と、お玉さん。子供を育てながら、一筋縄ではいかない義父と義母の面倒を看つづけた。 95年、金婚式を記念してブラジルに来て以来、はじめて日本に一時帰国。お玉さんは故郷の和歌山県に在住する親戚にも会ってきた。 今は、毎年3月にサンパウロで行われているベラ・フロレスタ会とウニオン会には、夫婦揃って顔を出している。 「今まで口に出して言ったことはなかったが、コレ(お玉さん)には本当によく父母の面倒を看てもらった」と孝一さんは、お玉さんへの感謝の気持ちを改めて表していた。(2009年8月号掲載)
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