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マツモトコージ苑
     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
宇佐美宗一さんと阿部五郎さん [画像を表示]

宇佐美宗一さんと阿部五郎さん (2019/04/17)
2009年9月号阿部さんと宇佐美さん1.jpg
宇佐美さん(左)と阿部さん
 世代交代が進み、現在では主に日系2世、3世が中心になっての活動が行われているバストス日系文化協会。しかし、「ここ一番」の1世世代の「縁の下の力持ち」的な支えは欠かせない。今もバストスの日系社会から頼りにされているのが、戦後移民としてバストス市内でホテル経営を行っていた宇佐美宗一(うさみ・そういち)さん(72、大分県出身)と、2世ながら日本語の読み書きが堪能な阿部五郎(あべ・ごろう)さん(82)の2人だ。
 バストス老人クラブ「明朗会」の会長を務めていた阿部さんは、サンパウロ州アララクアラ線のジャボチカバールで生まれ、ランシャールを経て7歳でバストスに移転。その後、同地に70年以上在住している。
 一方の宇佐美さんは1955年、18歳の時に「あめりか丸」で家族とともに渡伯した。バストスに直接入植し、4年間農業生産を行った後、町に出て旧バスターミナル内の敷地を借りて50年代後半からの約10年間、レストランを経営。ターミナル向いの場所に土地を購入して「宇佐美ホテル」を創設し、営業していた。
 バストスの町に出てきた宇佐美さんを、地元の連合青年団長だった阿部さんが誘ったことから、2人は親しくなった。
 50年代後半当時、連合青年団は傘下17支部に700人以上の青年たちが加入していたという。バストスで有名だった野球をはじめ、陸上競技や文化活動にも力を入れ、毎月のように支部会議を開いていた。また、バストス、アリアンサ、チエテ、アサイのブラジル拓殖組合造成の4移住地での野球大会などもあり、隆盛を誇った。
 弓場(ゆば)農場創設者の故・弓場勇(いさむ)氏と会い、一緒に風呂に入る機会のあった阿部さんは、「すべて費用を持つから、青年団で50羽養鶏をやらないか」との誘いを受けた。
 当時の養鶏は500羽が一般的で、「10人集まれば、青年でも1つの養鶏ができる」という考えがあった。それまで青年団の活動費は寄付を集めて行われていたが、「自分たちの活動のことは、自分たちで稼ごう」との雰囲気が生まれた。
 雛(ひな)の供給は弓場氏が行ったが、結局、費用は阿部さんの前の青年団長だった故・小沢将男(おざわ・まさお)氏が出資し、阿部さんも率先して実行に移した。その頃、青年団の中に啓蒙団体の「4Hクラブ」があり、養鶏で得た収益はその活動に大いに役立ったという。
 ホテル業の合間に青年活動にも参加していた宇佐美さんだが、「宇佐美ホテル」は特に繁盛した。当時のバストスはアラサツーバに行く長距離バスの中継所で、昼前後にバスが到着することからホテルに立ち寄る客が多かった。
 加えて、「鯉コク」「鯉の洗い」を出すレストランも兼業。ドラセーナ、マリリアなど近郊地からも鯉を食べに来る客でも賑わった。鯉は、地元で養殖していた前文体協会長である大野悟朗(おおの・ごろう)氏の祖父から仕入れ、宇佐美さん自身が料理し、さばいた。当時、鯉料理を食べさせるところは「宇佐美ホテル」が唯一で、ビアジャンテ(地方を渡り歩く行商人)も多かったことも繁盛に拍車をかけた。
 「特に、祭りの時は稼ぎ時だった」と宇佐美さん。「その頃は(バストス名物の)『卵祭り』と言っても、今のように特設会場でやる訳でなく、演芸会などはウチのホテルの裏でやってたんですよ。ホテルに泊まるお客さんは満杯で、人通りも多くてね。演芸会場の場所取りのために、数日前から泊まり込んでいた人もいたね」と振り返る。
 2009年で50回目の節目を迎えたバストス卵祭りでも2人は、各地からの来客の接待を行い、自らの車を出して会場への送り迎えをするなど裏方に徹した。
 「お互い手が要る時には『貸せ』と言い合うし、あいつに頼まれたら嫌とは言えない関係だね」と阿部さんは、宇佐美さんとの友情を今も大切にしている。(2009年9月号掲載)
 


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松本浩治 :  
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