篠木恵子さん (2019/06/04)
「こんな所に連れて来られて、と親を恨みましたよ」―。 現在、サンパウロ近郊のモジ・ダス・クルーゼス市に住む篠木(ささき)恵子さん(62、徳島県出身、旧制・原)は、アクレ州キナリー移住地での経験をこう語る。 徳島県小松市で卵の売買をしていた原家は、祖父が孫(恵子さんの兄)が病弱だったことを気遣い、ブラジルに渡ることを決めた。父母は反対したが、祖父は意志を曲げなかった。 1959年3月、「あめりか丸」で神戸港を出航、同4月にベレンで船を乗り換え、アクレ州の州都リオ・ブランコに到着したのは2か月後の6月。恵子さんは当時、まだ11歳の少女だった。 キナリー移住地は53年、当時のアクレ直轄州の農業振興を目的に創設。州都リオ・ブランコ市の南方19キロ地点から始まる。59年4月に6家族44人、同6月に7家族47人の計13家族91人が入植した。 恵子さん家族は第1次の入植者。30アルケール(約72ヘクタール)の土地は肥沃だったが、農業経験もない家族にとっては、まさに「緑の地獄」だった。 移住地の主産物はゴムだが、成木して換金作物となるまでには10年はかかる。7人弟妹の長女だった恵子さんは、朝の水汲みから始まり、父親とともに食糧用の米をはじめ、ミーリョ、マンジョカ、フェジョンなどを植えた。 「父には長女だからと頼りにされたのですが、毎日、畑に連れていかれて、勉強どころではなかったですよ。ブラジルに行こうと言い出した祖父が2年目にマラリアで亡くなり、あれだけ父の悪口を言っていたんですが、最後は父の手を握って『頼む』とだけ言い残しました」 同船者で移住地の隣に住んでいた現在の夫である篠木敏夫(ささき・としお)さん(66、兵庫県出身)が度々、薪割りなどを手伝ってくれた。親の薦めもあり、恵子さんが16歳だった64年、2人は結婚した。 原家は移住地に残ったが、篠木家は移住地に見切りを付け、恵子さんたちの結婚後、マナウスを経てベレンへと出た。 マラジョー島近くの「タパニャウ」という島に600アルケールの土地を購入し、炭焼きなどを始めたが、周りにはほとんど人が住んでなかった。 「あまりの寂しさに日本人の移住地を世話してほしいと海協連(現JICA)に頼んだら、紹介されたのはサンタ・カタリーナ州のラーモス移住地でした」 篠木家全員で転住し、同地で油桃(ネクタリーナ)などを栽培したが、収穫間際に作物が霜や突風にやられてしまう始末。恵子さん夫妻は移住地を出ることを考えていた時、当時巡回診療で同地を訪問していた細江静男医師が「(奥地診療からの)帰りで良かったら一緒に連れていってやる」と話し、恵子さん夫妻は車に同乗してサンパウロへと出た。 コチア市で平尾さんという獣医の世話になり、その頃から夫妻の各地を転々とする日々が始まった。 「仕事のために住んだモイニョベーリョでは、ご飯も手で食べ、鶏の止まり木にコルションを敷いて寝ていました」と恵子さんは、当時の状況を振り返る。 その後、ラージェス、モイニョベーリョ(2回目)、アルジャー、モジ、スザノ、モジと転住を繰り返した。2人の子供も生まれ、敏夫さんはその間、バス会社の技師をはじめ、養鶏関連や肥料会社の営業マンとして各地を歩き回った。 89年には敏夫さんが日本に出稼ぎに行き、4か月後に恵子さんを呼び寄せた。静岡県浜松市の計量メーカーで管理職として12年間働き、生活も潤うようになった。 「本当はブラジルには帰ってきたくなかったけれど、子供たちがいたからね」 99年には乳ガンを患ったが、一命を取り留めた恵子さん。現在は孫の面倒をみながら「主人とケンカするのが楽しみです」と笑う。 「昔のことを話すと娘たちには『今は時代が違うから』と言われますが、本当に苦労の連続でしたよ」と、しみじみ語ってくれた。(2009年10月号掲載)
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