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     南米日本移民の肖像  (最終更新日 : 2024/12/08)
増田敏明さん [画像を表示]

増田敏明さん (2019/06/13)
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 「ペレイラに愛着があり、この町を出ようとは思わなかった」―。こう語るのは、サンパウロ州ペレイラ・バレット(旧チエテ移住地)で約80年間住み続けている増田敏明(ますだ・としあき)さん(85、香川県出身)。同地の文化体育協会(ACEP、木庭元幸会長)の顧問や同地の西本願寺代表などを歴任し、農業生産から始まった移住地の生活は、車の修理工場などを経て現在、マット・グロッソ州にある約700アルケール(約1680ヘクタール)の土地で農牧業を営むなど、ファゼンデイロ(大農場主)として財を成してきた。
 1930年6月、「博多丸」で渡伯した増田さんは当時、まだ7歳の少年だった。サントスから汽車に乗り、現在はダムの下に沈んだルッサンビーラ駅で下車。チエテ川をバルサ(いかだ)で渡り、移住地に入植したという。
 父親・才太郎さん(故人)は、家を立てるためにブラジル拓殖組合の収容所から毎日、入植先のA区まで開墾のために通い、1か月後には同地に移ることができた。
 当時、A区には60家族が入植し、増田家族は最初に米を作ったが、売る先がなかったために金にならずに腐らせ、カフェも植えたが霜にやられるなど当初は思うようにいかなかった。綿・ミーリョ生産に切り替え、父母が中心となり、農業活動を続けた。長男の増田さんは「14歳から(消毒用の)重い噴霧器を背負って農業の手伝い」をし、16歳で父親から農業経営を任された。
 その頃、A区はウニオン区と名前を変え、綿生産で沸いた移住地の全盛時代には、全体で約1500家族の日系家族がいた。養鶏・養蚕も行なったが、養蚕は絹が敵国のパラシュートの原料になるとして減産。戦後、日本からの情報が途絶え、「勝ち組」「負け組」の動きも出だし、当時の青年団の約7割が「勝ち組」思想だったという。増田さんは情報が入らずに日本が戦争に勝ったか負けたか「本当に分からなかった」状況の中、「今、騒ぐべきでない」と世間の騒動に巻き込まれること無く、自重していた。
 その後、10年ほど農業生産を続けたが、「新薬(農薬)が出て、それを使ったら頭が痛みだした」(増田さん)ため、戦後移住地を出て行った人の土地を購入、50年代初旬から牧場経営に変更した。27歳で知人からの紹介で芳子夫人(80)と結婚。それと同時に、51年から弟たちと共同経営で車の修理工場も始めた。
 戦後、他の移民たちが移住地を出て行く中で増田さんは、「ペレイラには愛着があったので、ここを離れようとは思いもしなかった」と、チエテをこよなく愛してきた。
 70年代には、マット・グロッソ州に牧畜用の土地を購入するため、当時(サンパウロ州)アラサツーバにあったブラジル銀行からの融資を受けるために20回近く通ったという。その結果、現在は同地に700アルケールの土地を保有することができた。
 88年、日本の瀬戸大橋の開通式に参加するため、初めて日本に一時帰国を果たした増田さんは、故郷の香川県にも足を運んだ。実家は「金毘羅(こんぴら)さん」の近くにあったが、「山だった土地が平坦になっていた」と時代の流れを肌身に感じた。
 戦後の勝ち負け抗争では嫌な思いをした増田さんだが、戦後、文化協会が55年に創立してからは「様々な活動が出来、楽しい思いができた」と振り返る。 
 文体協顧問を務める増田さんは今後の協会の活動について、「あんまり拡大し過ぎたら、経営が苦しくなる」と見ており、これまで築いてきた経験を後世に引き継いできた。
 毎年、7月下旬の盆踊りの時期には、ブラジル国内に散らばる子供たちがペレイラ・バレットに帰郷し、家族での団欒(だんらん)を楽しむ。ブラジル唯一の盆踊り常設会場で増田さんは、子供や孫に囲まれながら充実した表情を見せていた。(2009年11月号掲載)
 
    


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松本浩治 :  
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