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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
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木村光子さん (2019/07/03)
2009年12月号木村光子さん(理髪店)1.jpg
 「あの頃は本当によく働いたわね」―。
 サンパウロ市東洋街(リベルダーデ区)のアメリコ・デ・カンポス街76番地で「木村理髪店」を営む木村光子(きむら・みつこ)さん(73、熊本県出身)は、40年以上にわたって客たちの髪を切り続けてきた。
 主人の伯父(父親の兄)の呼び寄せにより、花嫁移民として1960年1月、オランダ船の「テゲルベルグ号」で渡伯した光子さんは、熊本県で農業などを行っていたが、「外国に行きたい」との考えが強かったという。
 主人の木村秋行(あきゆき)さん(77、熊本県出身)は、光子さんが来る4年前に、やはり伯父の呼寄せでブラジルに渡っていた。
 その頃、サンパウロ州パウリスタ線のイラプルーにあった木村農場は、約1000アルケール(約2400ヘクタール)の広大な土地を持ち、綿作が全盛の時代で「収穫の時は、あたり一面に雪が降ったようだった」と光子さんは振り返る。
 4年半、イラプルーで農業生活を続けた光子さんは、子供の教育を重んじ、サンパウロに出ることを決意した。65年頃のことだった。「農場に居たら不自由も無かったんだけど、子供のことを考えると、サンパウロの学校に行かせないと、と思ってね」
 リベルダーデ区の日伯援護協会に職探しの相談に行ったところ、女性の床屋は珍しいと勧められ、「それなら自分がやってやろう」と、東洋街に程近いセントロ区にあった理髪専門学校に数か月通い、技術を身に付けた。
 その間、子供はグアルーリョス(サンパウロ近郊)の親戚のところに預け、リベルダーデ区エスツダンテ街にあった『池田ホテル』を手伝って寝泊りしながら、専門学校に通った。66年には、リベルダーデ広場にあった台湾人が経営する理髪店で働くことになったが、実際に髪を切る職人は日本人ばかりだった。同店で実践の技術を身につけるとともに、固定客も少しずつ増えていった。70年代初頭に独立。ガルボン・ブエノ街293番地を店を開けた。その当時、東洋街の日本人理髪店だけで10軒以上あったという時代。生存競争の激しい中で、光子さんの店は朝から晩まで客が絶えなかった。
 「朝8時から、夜は11時か12時になるのはザラだった。一番遅い時は、夜中の2時まで働いたよ。向かいがBARだったから、飲みに来た客が散髪することもあったし、バタテイロ(ジャガイモ生産者)が収穫したカミヨンをそのまま運転して来ることもあったね。まあ、今と違って平和な時代だったからね」
 総領事や大使が髪を切りに来ることも度々だったが、援護協会会長を務めた故・竹中正(たけなか・ただし)氏は、午前6時に理髪の予約を入れると、午前5時半には光子さんの自宅まで運転手が迎えに来ることもあったという。
 また、フッテボール選手で93年から日本で始まったJリーグの立役者である「カズ」こと三浦知良(みうら・かずよし)さんもブラジル留学時代から同店を利用し、今でも数年に1度は顔を見せに訪れる。 地方からの常連客がサパウロに出てきた際に、立ち寄ることも少なくない。リベルダーデ界隈の人たちの憩の場としても、根強い人気がある。
 「良いお客さんたちに支えられたね」と、これまでの生活を振り返る光子さん。「今はもう、昔のように働くこともこともなくなったけれどね」と、感慨深げな様子だ。常連客たちからは惜しまれながらも、今年の年末で理髪業を勇退することを決意した。今後は、第2の人生に向かって歩み始める。(故人、2009年12月号掲載)


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松本浩治 :  
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