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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/05/01)
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曽木一禎さん (2019/07/29)
2010年1月号曽木一禎さん2.jpg
 パラー州サンタレンに在住する曽木一禎(そき・かずさだ)さん(75、宮崎県出身)は、これまでにブラジル各地を歩き回った経験を持つ。自身は海軍兵学校のあった広島県江田島生まれで、長崎県佐世保育ち。1941年に戦争が始まると同時期に宮崎県に転住している。
 父親の一(はじめ)さん(故人)は、職業軍人として戦前は南洋での海軍航空基地建設に携わり、終戦時は上海の第3航空隊副司令官だったという。戦後、一さんは戦犯扱いで公職追放となり、宮崎県の開拓村に家族で入植。ところが、53年に県営ダムが建設されたことから、開拓村は水没。当時、18歳の青年だった一禎さんは、戦後の南米移住募集に目を付け、家族に勧めた。
 当初はバイア州ウナ移住地やミナス州への募集も考慮したが、一さんの知り合いの宮崎県会副議長が戦前、アマゾン日本人移民の現地での受入を行なった南米拓殖会社を通じてモンテ・アレグレに入植していた。そのことから、戦後のアマゾン移民枠を作った「辻小太郎移民」として家族7人で1953年7月、「あふりか丸」により神戸港を出港した。
 モンテ・アレグレに入植したのは、宮崎県からは曽木家族を含めて2家族のみ。自営農として30町歩(300メートル×1000メートル)の土地に米や豆などを植えて自給生活を実践した。
 土地が肥沃で、「1年で5町歩に作付けして、サンパウロまでの一家の旅費を稼げたほど」(一禎さん)だったという。
 一禎さんは同地でキヨエ夫人と結婚したが、一さんが入植7年目に死去。当時、小学校しかなかったモンテ・アレグレでは、一緒に渡伯していた弟たちの教育問題もあり、64年に転住することを決意した。
 キヨエさんの家族が結核で療養生活を強いられ、義姉の夫がサンパウロに出ていたこともあり、一禎さんは家族を連れてサンパウロ近郊のスザノ福博村に数か月滞在した後、グァラレマの桜・高森植民地に入植。弟たちを大学にやりながら、バラやグラジオラスなど切花を中心に花卉栽培を行ない、約10年間同地に留まった。
 しかし、「花作りは、いずれ行き詰まる」と思った一禎さんは、サンタレンに行くことを考えた。サンパウロ時代、常に良い土地を求めてアマゾン地域を自分の足で歩き周った上での結論だった。
 さらに、73年頃サンタレンとマット・グロッソ州クイアバとを結ぶ道路や発電所ができ、港湾施設も整いだした。「これは将来性がある」と同地に単独で転住。ピメンタ栽培に着手し、1年後に家族を呼寄せた。
 1年目こそ、「トラクターが一台も無い生活だった」が、76年からブラジル銀行が実施した低利子の融資政策を受け、その後は10万本のピメンタを作付け。年間300トンもの収穫を誇るようになり、同地での大規模農場の先駆けとなった。
 その後、80年代初頭からパラー州中東部のセーラ・ペラーダの金鉱で金堀りを行なった。「儲けた金より、つぎ込んだ金の方が多かった」というが、「セーラ・ペラーダの土地が自分には一番合っていた」と一禎さんは振り返る。 
 金鉱で9年間を過ごし、その隣町クリオノーポリスに居た際に身体を壊し、日本に出稼ぎに行っていた娘から「日本で治療したら」との忠告を受け、97年、ブラジルに渡ってから初めての一時帰国を果した。
 しかし、日本での生活は水が合わず、2000年頃に単身ブラジルへ。知人の紹介でサンパウロ近郊のジャカレイに土地を借り、花づくりをしていたが、4年程前に現在のサンタレンに戻ってきたという。
 「自分では、いろいろまだやりたいと思っているけど、身体の方がついていかなくてね」と苦笑する一禎さん。渡伯当初のアマゾンの気候がやはり、肌に合っているようだ。(2010年1月号掲載)
 


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松本浩治 :  
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