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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
渡部リツさん [画像を表示]

渡部リツさん (2021/05/28)
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 パラー州ベレン近郊のサンタ・イザベルからトメアスーに向かう舗装道路を車で走ること約20キロ。道路の東側にあるグァマ移住地内の高台に、今も住み続ける渡部(わたなべ)リツさん(86、福島県出身)を訪ねた。
 1957年、福島県内で川が氾濫し、渡部さん家族ら9家族が持っていた畑が水没の被害に遭った。夫の徳次さんは(83年、69歳で他界)は当時、西会津でバスの運転手をしていたが、道路決壊で路線を通ることができない状況に陥った。
 その頃、町役場や県庁では率先して「グァマ移住地」への米作移民の勧誘を行っており、「どうにもしょうがないのでブラジルに行こう」と徳次さんが決めた。
 親の反対を受けたリツさんだが、「旦那がブラジルに行くというなら従わざるを得ません」と姪を構成家族に入れ、子供3人も一緒に連れて移住した。56年10月末に「あめりか丸」で神戸を出発。混沌とした船旅が続き、同年12月第2次移民としてグァマ耕地に入植した。リツさんが33歳の時だった。
 耕地に入って驚いたのは、河からの水が上がってくることだった。
 「日本で聞いた話と全然違う」。渡伯を前に福島県の地元町役場で壮行会が開かれた際、外務省職員がグァマ耕地の話をしていた。「とにかく、幅の広い河で米作りができる。河は土手が築いてあり、耕地の境には水門もできる。田んぼに水を入れたい時に水門を開け、土手を築いたところには道ができている。本当にあなた達は恵まれた人達ですよ」と。
 しかし、現場に来てみれば「田んぼに水を入れる」どころの話ではない。雨期の2、3月になるとロッテ全体が浸水する。
 「入植当時、何回泣いたか分かりません」―。容赦ない自然環境に、ただ生きるのが精一杯の状況だったという。
 その頃の唯一の楽しみは、婦人同士で集まって話をすること。娯楽がほとんどない中で、河で釣ったピラルクーの料理法などを覚えた。
 「旦那連中は集まればすぐにピンガで一杯となるけれど、女性達は家事もあったしそういう訳にはいきません。今となっては、懐かしい想い出と思うしかありません」
 肝心の米は、樹木を伐採、山焼きをして片付けたところに少しずつ陸稲を蒔いていった。
 第1次入植者が同地でキャベツを作って出荷しているのを知り、「自分たちも百姓の経験がある」と見よう見真似でキャベツ作りに励んだ。
 雨期は米づくり、乾期はキャベツ生産の日々が続いたが、キャベツは生産過剰により、すでにベレンでは売れなくなっていた。トメアスーまで船を借り切って野菜類を持って行った時、同地はちょうど、ピメンタ(コショウ)景気に沸いていた。ピメンタの収入により、新品のカミニョン(トラック)を買ったという話を聞かされて、渡部さん家族の心は動いた。
 トメアスーからピメンタの苗を1千本ほど購入し、ブラジル人から移住地内の他の耕地を購入。「我々にもピメンタ栽培ができないこともなかろう」と9家族が一緒に低地を出て心機一転を図った。しかし、肝心のピメンタは枯れて実らず、渡部さん以外は他の耕地へとさらに転住して行った。
 結局、渡部さん家族は現在の移住地内の高台に移ってからは40年以上、ピメンタを植え続け、そのほかに養鶏、レモンやマモンなどの果樹類、野菜類も栽培している。
 「私らは結局、どこにも動けなかったんですよ」と笑うリツさんだが、地道な生産活動が生活を支えてきた。
 リツさんは約40年前から趣味で短歌をはじめ、6年ほど前からはベレンの俳句会にも顔をだすなど、生活にも余裕ができてきた。夫に先立たれ、2002年には不幸にも次男の佳男さん(当時54歳)が事故死している。
 「(グァマ耕地に入った時からの)生活のことや子供のことなど、自分の思ったことを日記代わりに短歌にして綴ってきました」というリツさんは、それを基にした俳句を作って応募。今年のNHK俳句大会で「海外作品賞」を受賞した。
 「移民史を一人ひもとく星月夜」
 辛苦を舐めながらも人生の大半を過ごしてきた土地に、今は大きな愛着を感じている。(2010年4月号掲載)


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