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マツモトコージ苑
     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
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竹下政伯さん (2021/06/03)
2010年5月号竹下政伯さん1.jpg
 コチア青年の1次1回生としてブラジルに渡って、2010年で55年の年月が流れた。その間、一貫してサンパウロ近郊のモジ・ダス・クルーゼス(モジ)郡ピンドラマに留まってきた竹下政伯(たけした・まさとる)さん(宮崎県出身)は、同年11月で傘寿(80歳)を迎えた。同船の宮崎県出身者には、コチア青年連絡協議会歴代会長の黒木政助(まさすけ)氏、同協議会副会長などを歴任した黒木慧(けい)氏や、同じモジ在住の指宿直(いぶすき・ただし)氏らがいる。
 竹下さんは1930年、宮崎県飯野町(現:えびの市)で農家の長男として生まれた。地元の旧制中学を16歳で卒業後、実家を継ぎ、米、サツマイモなどを生産していた。
 母親の従兄弟が戦前にアマゾン移民としてブラジルに渡っていたことが、「海外に出たい」という竹下さんの気持ちを常に揺さぶっていた。25歳になった時、ブラジル行きを決意。当初は構成家族を組んで海を渡るつもりだったが、地元農協でコチア青年制度を知り、「1人で行く方が気が楽だ」として、「あめりか丸」に乗り込んだ。
 しかし、竹下家にとって大切な後継ぎがブラジルに行くことに、父親は猛反対した。
 「町長に、私がブラジルに行かないよう直訴したようですが、私の気持ちは変わりませんでした」
 その3年後の58年、竹下さんの両親は7人の子供のうち、4人を引き連れて渡伯し、聖市近郊のピエダーデに家族移住。父親はその後、56歳の時にピエダーデで亡くなったというから人生というものは分からない。竹下さんの熱い思いに、父母、弟妹たちも引き寄せられた形だ。
 竹下さんは、モジ市内から南東に21キロ離れたピンドラマでバタテイロ(ジャガイモ生産者)として活動していた同じ宮崎県出身の徳澄(とくずみ)ヨシヒサさんのもとで3年間働いた。その後、コチア組合から独立資金を借り、同地の別の日本人の土地でバタタを生産。その後は、桃、ビワ、ゴヤバなどの果樹生産に切り替えた。
 60年には、岡山県出身の父親を持ち同地で生まれた玲子夫人(2世、70)に交際を申し込んで結婚。当時としては珍しかったようだ。
 「(パトロンの)徳澄さんにしても家内の父親のしても、私らのような新移民を差別することなく、本当に良くしてくれた」と竹下さんは、良き人々との出会いを大切にしてきた。
 「特にモジは当時から日本人が多く、どこに行っても活気があり、日本語で通せてブラジル語など話さなくてもよかった。先輩の人たちが苦労して基礎を固めておいてくれたため、ブラジルに来ても苦労を感じたことはないな」と竹下さんは、先人の恩恵の上に現在の自分たちがあることを実感している。
 ピンドラマは全盛期で約130家族がいたというが、現在でも約90家族が日本人会に所属。「大きなものはできないけれど、日本人としてはこれほど住みやすいところもない」と竹下さんは、ピンドラマへの思いを語る。
 88年には渡伯33年目にして一時帰国。そのまま群馬県の車部品工場で出稼ぎとして、長男とともに通算6年間にわたって働いた経験も持つ。帰伯後、子供たちは長男がサンパウロで整体師として働き、残り5人の息子、娘たちもそれぞれに独立し、今は玲子夫人との2人暮らしが続く。
 「日本にあのまま居たら、ブラジルのような生活はできていなかったと思う。ブラジルに来て本当に良かった」と満足げに語る竹下さん。今後の目標について、「今の(ビワ生産、盆栽)仕事だけで手いっぱい。楽しんで毎日を過ごしています」と柔和な笑顔を見せた。(2010年5月号掲載)


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松本浩治 :  
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