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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/04/22)
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与儀米子さん (2021/06/10)
2010年6月号与儀米子さん1.jpg
 「自分が青年隊の中に入れてもらったことは、最高の喜びです」―。2007年9月30日に開催されたブラジル沖縄青年隊移住50周年記念式典に出席した第2次女子青年隊の与儀米子(よぎ・よねこ)さん(66、沖縄県出身)はこの日、祝辞の挨拶を行う大役を果たした。
 同青年隊は、米軍用地問題や人口対策などで揺れていた戦後の混乱期の時代、社会問題解決策の一環として1957年の第1次を皮切りに、ブラジルへの若者の派遣を促した制度だ。
 米子さんの父親が地元の移民局長と知り合いで、女子青年隊としてのブラジル行きを薦められ、家族も同行することで米子さんは承諾。61年(チサダネ号)の渡伯を前に名護キャンプで3か月間、女子青年隊としての訓練を行った。訓練所では午前6時に起床して隊旗を掲揚。パイナップルを植えたり、草取りなどをやらされたほか、男子隊員に混じって山を切り開いたりもした。
 父母、兄妹ら家族10人で海を渡り、サンパウロ州カンピーナス市から西に約40キロ離れたエリアス・ファウスト在住の新垣源次郎氏の農場で世話になった。63年頃にサンパウロの町へ出て、米子さんはカンブシー区で絹織物関係の事務員として働いた。当時、まだ18歳だった。
 両親たちはサンパウロ市内でフェイラ(青空市場)の仕事に就いたが、思うように金が貯まらない。「少しでも親孝行したい」と米子さんは65年、同村出身者で戦災孤児だった与儀時次郎(ときじろう)さんと結婚した。渡伯前、米子さんは開発青年隊の理事長だった瑞慶覧長仁(ずけらん・ちょうじん)氏から、「必ず青年隊と結婚してほしい」と言われていたが、伴侶は青年隊ではなかった。
 当時、時次郎さんはサンパウロ市から約300キロ離れたサンパウロ州イタベラーに伯父の土地40アルケールの密林開拓に励んでいた。21歳だった米子さんは、初めての「電気もない、人もほとんどいないヤマの生活」に入った。
 夜明けとともに起き、日中は汗と泥にまみれた農作業を続けたが、暮らしぶりは進展しない。奥地で思うようにいかない農業に疲れ果て、73年にはやむなく、夫と三男一女の子供を連れて父母の住むサンパウロへ。父母たちがやっていたフェイラの仕事をイピランガのビラ・プルデンテ区で始め、主に野菜類などを販売した。出店だけでなく、野菜を洗ったり箱詰めしたりと1日3、4時間の睡眠で寝る間も惜しんで働いたが、インフレの影響などで生活は少しも良くはならなかった。
 「その頃、青年隊の集まりがあることも聞いていましたが、それどころではありませんでした」
 88年、夫をブラジルに残し、親子5人で日本に出稼ぎへ。悲壮感が漂う中で日本に向かったが、母国日本の経済活動が米子さん親子を助けた。
 「金の成る木を求めてブラジルに渡りましたが、本当の金の成る木は日本にありました」と米子さん。東京の病院で5年ほど働いたが、「背中が痛くなるくらい睡眠を取ることができ」(米子さん)、ブラジルの仕事から比べると楽なものだったという。 
 90年には、ブラジルに渡ってから初めて故郷の沖縄に戻った。同級生たちが集まってくれたが、「もう、沖縄には住めない」と感じ、出稼ぎで得た金で、ブラジルでの生活を再出発させた。
 米子さんは「私たちがやらなければ」と今でも午前5時半に起きて、夫とともに午後9時までパステラリアで働き続けている。生活にもゆとりができ、95年には初めてのブラジル国内旅行もできた。
 そうした中で、2007年に改めて沖縄開発青年隊の集まりがあることを知った。
 「それまでは生活に余裕がなく、後を振り返ることもできませんでした。この時は青年隊の集いであいさつをさせてもらい、自分の人生を果たしたような思いです」と米子さんは、改めて青年隊の友情と団結の素晴らしさを噛み締めている。(2010年6月号掲載) 


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松本浩治 :  
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