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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
岡崎幸雄さん [画像を表示]

岡崎幸雄さん (2021/06/30)
2010年7月号岡崎幸雄さん1.jpg
 「外国に出て、何とか自分でできる仕事を見つけたかった」―。サンパウロ市南西部イタペセリカ・ダ・セーラに在住する岡崎幸雄(ゆきお)さん(宮城県出身、75)は、渡伯のきっかけをこう語る。
 農業生産を経て、「このままではブラジルに来た意味がない」と転機ごとに上昇志向を実行に移し、ビアジャンテ(行商)のあと、日本伝統芸能の「コケシ作り」に転換。現在は、子供や孫たちが後を継いでいる。
 仙台の南、宮城県名取郡(現:岩沼市)の「米どころ」で8人兄姉の末っ子として育った岡崎さんは、親の「地元にいてほしい」との希望とは裏腹に、中学生時代から「海外に出たい」との思いを膨らませていたという。
 地元・名取高校を卒業後、神奈川県内の鉄工所で1年働いたあと地元に戻り、知人から「コチア青年移住」の話を聞かされた。「すぐにでもブラジルに行きたい」と県庁の海外移住課で手続きを進め、「1次4回コチア青年」として1956年4月1日、「あふりか丸」で神戸港を出発した。
 48日間の船旅でサントス港に到着後、すぐにサンパウロ市南西部エンブー市の山本利夫さん(故人・2世)の農場に青年として1人だけ受け入れられた。
 パトロンのもとに入った青年は原則的に4年の雇用期間を経るが、「入った以上、何年でも働きます」と、ナス、キュウリ、ニンジンなどの野菜作りに精を出した。
 入植3年目頃から「フランゴ・デ・レイテ」と呼ばれる若鶏の飼育を任され、鶏舎小屋つくりなども行った。5年の月日が過ぎ去った時、パトロンから「もう、そろそろ独立した方が良い。どうせなら自分の土地を貸そう」と勧められた。独立とともに幼馴染みだった1世の加代子夫人(70)と結婚。山本さんの土地を借りながらの新しい生活が始まった。
 しかし、転機は2、3年後に来た。当時、ブラジルで猛威を奮った「ニューカッスル病」で鶏は全滅。野菜づくりへの変換を余儀なくされた。「野菜を作るなら、もっと広い場所が必要」と、友人の紹介でアチバイアに土地を購入した。
 「良いキュウリができて、値も良かったんだけどね」―。当時、生産物をコチア産業組合とCEAZA(食糧配給センター、カンタレーラ街)に半々の割合で出していたが、「最高の値で出してやるよ」という仲買人の言葉を信じ、CEAZAにすべてを出荷したことが裏目に出た。
 「清算しに行ったら、全然良い値じゃなかった。これじゃダメだと思ったね」と岡崎さん。子供の教育面などを加代子さんとも相談した結果、「借金の無いうちに百姓にキリを付けよう」とアチバイアの土地を売却。現在住んでいるイタペセリカ・ダ・セーラに移転した。
 ビアジャンテの生活を始めたのは63年頃、岡崎さんが三十路にかかろうとしていた時期だった。大型スクーター(ランブレッタ)を購入し、衣料品を荷台に括り付けては、主にバルゼン・グランデ、イビウーナ、ピエダーデなど聖南西地域を中心に根気よく足を運んだ。
 「はじめは人間関係もできていないので、あまり売れなかったけれど、5回も6回も周っていると1回くらいは買ってくれるようになった。まあ、儲けはともかく、歩いて周るのが仕事だったからね。行商を辞めた今でも地方に行けば、喜んでくれる人もいるよ」と岡崎さんは人の良さそうな笑顔を向ける。
 約20年続けたビアジャンテに見切りを付けた岡崎さんはその後、元来の手の器用さを生かし、見よう見真似で「コケシ・ダルマ作り」を始めた。90年代はじめからは日本に「遊びがてら」出稼ぎにも行き、現在、「コケシ作り」は息子や孫たちが引き継いでいる。
 「今でもやっぱりブラジルがいいよ」と語る岡崎さん。人生の転機ごとに自分の意志を貫いてきた満足感が、表情にあらわれている。(2010年7月号掲載)


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松本浩治 :  
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