谷口範之さん (2022/10/28)
「何を今さら、という感じ」―。2010年6月16日、「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」(シベリア特措法)案が、日本の衆院本会議で可決され、元抑留者への特別給付金支給が実現することになった。このことについて、サンパウロ市在住の谷口範之さん(85、広島県出身)は、低い声で冒頭の言葉を呟いた。 旧満州北西部でのソ連軍との戦闘後、捕虜としてシベリアに約1年3か月間抑留された経験を持つ谷口さんは、広島市内の旧制中学を繰上げて卒業した後、先輩のつてなどで単身17歳で満州の新京へ。同地の「満州電信電話株式会社」に事務員として入社した。 1945年3月、関東軍の第119師団歩兵第254連隊第3機関銃中隊に入隊。満州北西部の大興安寧山脈の海抜1800メートル地帯に設営された免渡河(めんとか)に駐屯した。同地の一個連隊は約3千人。中隊には約200人が所属し、同期は約40人が一緒だったという。 「1944年の10月前後には、関東軍は主力部隊を南方に移していました。今から思えば我々は、その穴埋めのためにソ連国境へと配備され、捕虜になるために行ったようなものでした」 45年8月、ソ連軍は満州に侵攻を開始した。同月6日未明に本隊からの命令により、免渡河から約80キロ離れた伊列克図(いれくと)へ移動。同月13日、谷口さんが所属していた第3機関銃中隊に出撃命令が出され、伊列克図の西丘陵部先端に広がる台地に配備された。 翌14日午前9時頃、西方面の地平線からソ連軍の戦車が姿を現した。自軍の砲弾が戦車に直撃したが、よどみもなく前進を続ける戦車群を目の当たりにし、「どうにもならない」との気持ちが谷口さんの心を支配した。 「頭の上を砲弾が飛び交い、本当に恐ろしかった」と谷口さんは、当時の様子を生々しく振り返る。 同月18日、壊滅状態の中で最後の出撃命令が下り、「生きては帰れない」と覚悟を決めた際、「終戦」の報が届いた。鉄道駅近くで武装解除となったが、3千人いた一個連隊は、半数近くに減っていたという。 45年9月2日、博克国(ぶはと)の陸軍病院跡に一時的に収容されていた谷口さんたちは、日本軍の佐官とともに壇上に立ったソ連軍の将校から、捕虜たちが汽車に乗って日本に帰れるということを説明された。誰もが日本に戻れると思っていたが、日本に帰れないと気付いたのは翌朝、太陽が汽車の前方ではなく、後方の東側から昇ってきた時だった。 「騙されたと思い、絶望的な気持ちになりましたよ」 谷口さんたちが抑留されたラーゲリ(収容所)は、チタ州モルドイ村。北緯50度、東経111度、海抜3000メートルの僻地だったが、火力発電所があり、その付近には発電所用の炭鉱もあったという。 収容所では朝晩2回、塩汁だけの食事が続き、数日後に高粱(こうりゃん)の実が50粒ほど塩汁の中に入れたものが出されたが、腹には溜まらなかった。 空腹の上、極寒の地での強制労働を課せられた。作業内容は、発電所用貯水池のための土手の嵩(かさ)上げで、ツルハシやスコップなどで凍った地面を掘るのだが刃が立たない。防寒帽、防寒大手套(だいしゅとう)などの防寒具を与えられたものの捕虜たちは夏服のため、寒さと重労働で日本兵たちは次々に倒れていった。モルドイに収容されたのは当初、約620人だったが、そのうちの約260人が亡くなり、遺体の山が積まれたという。 収容所の身体検査により、体力が低下していると判断された谷口さんはシベリアの各収容所を転々と移動させられた後、46年の12月、夢にまで見た日本に帰れることになった。北朝鮮の元山(げんさん)から船に乗り、翌47年1月9日に長崎県佐世保港に着いた。 「大陸を移動中は、どこを通っているのか分らず、再びシベリアに戻されるのではないかと日本に帰れることを本気にはしていなかったが、日本に着いた時には言葉では表せなかった。本当に感無量でしたよ」と谷口さん。数多くの同志たちがシベリアで亡くなった中、生きて帰れたことに複雑な思いを持っていた。 故郷の広島に戻り、戦後満州から引き揚げた節子夫人と24歳で結婚した谷口さんは、57年に家族で渡伯。アマゾンのグァマ移住地に入植した。その後、サンパウロ州ピエダーデなどでの農業生活を経て、現在はサンパウロ市に住んでおり、92年5月末には「シベリア墓参団」の一員としてモルドイの地を再び踏みしめた。谷口さんの自宅には、モルドイを再訪問した時の写真が今も飾られている。(2010年8月号掲載)
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