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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
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沼田利子さん (2022/10/30)
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 「悲しくなった時は、これを見て元気を付けているんです」―。パラナ州ロンドリーナ市内に住む沼田利子さん(92、北海道出身)は、部屋に飾られた亡夫の数々の賞状を見ながら、表情を和ませた。
 祖父の時代から札幌市で呉服店をやっていた山本家(利子さんの旧姓)は、長兄が最初にブラジル行きを希望した。父母が引っ張られる形で家族は1932年に渡伯。父親の龍蔵さんは、当時すでに61歳だった。 
 女学生だった利子さんは「利子だけは本家に置いていってほしい」との叔父の願いにより札幌に留まったが、結局、翌33年8月、次兄とともに「りおでじゃねいろ丸」で神戸港を出航。両親たちが入植していた聖州バストスのプログレッソ区に呼び寄せで入った。 
 バストスは当時、綿作景気で沸いていた時代で、利子さん自身が働き盛りだったこともあり、否応無く農作業を手伝わされた。
 39年、親の薦めにより、同じ北海道出身の沼田貞作(さださく)さん(92年、77歳で死去)と見合いもすることなく結婚。バストスから約400キロ離れたパラナ州ロンドリーナの中央区に嫁いだ。
 その後、利子さんの妹が貞作さんの弟(沼田信一(しんいち)氏)と結婚、長兄が貞作さんの妹と結ばれるなど、北海道に居た頃から両家が知り合いだったこともあり、沼田家と山本家は縁はさらに深まった。
 「私が最初に沼田家で頑張ったお陰で、他の兄妹たちが行ったり来たりできたのよ」と利子さんは、胸を張る。
 貞作さんは同地に4アルケール(約10ヘクタール)の土地を購入。さらに4アルケールを増やした上、霜害の影響などでフレイザと呼ばれたロンドリーナから10キロほど離れた土地にも17アルケールの土地を買うなど、次々と面積を広げた。
 当時の北パラナは誰もがコーヒー生産を行っていた時代。「土地が良くてね。肥料もやらずに何を植えても本当によくできた。時間がもったいない、と働きまくったよ」と利子さん。二男二女の子宝にも恵まれ、子育てしながら夫と一緒に50歳過ぎまで畑仕事を続けてきた。 
 「ブラジルに来たら、女の方が酷かったというのは本当だったね」
 日曜日は午後から半日の休みがあり、男たちは野球などの娯楽で気分転換ができたが、女性たちは働き詰めの毎日。利子さんの当時の日常生活は、午前5時に起きて食事作りから始まり、子供のおしめを洗って風呂の水汲み。一日中畑仕事を手伝った後、再び夕食の準備と後片付け。日曜日は午前中の畑仕事の後、午後から1週間分溜まった洗濯が夕方までかかり、「休んだと思ったら、夕食の支度」(利子さん)という生活だった。
 夫の貞作さんは、地域の世話役としてパラナ日伯文化連合会(アリアンサ)会長や北海道協会ロンドリーナ支部長などを歴任。88年にはパラナ州日本移民80周年記念祭典の実行委員長を務めるなどし、同年、日本政府から勲五等瑞宝章を受章している。そのきっかけは、72年にコチア産業組合の農業技師をしていた長男が事故死したことだった。サンパウロの電話会社に勤めていた次男の雄史郎さん(63、2世)が急きょ、ロンドリーナに戻った。貞作さんは元気を無くし、畑を売りに出したという。 
 「その頃は悲しいことばかりだった」という利子さんは、長男の事故死を機に西本願寺に入信。86年10月には、京都で開かれた第8回世界仏教婦人会大会で南米代表として意見発表も行っている。
 2007年12月に90歳の誕生日を迎え、家族・親戚一同に祝福された利子さんは、「ひどいこともあったけれど、ブラジルに来て良い人生を送らせてもらったと思う」としみじみ語りながら、部屋に飾られた賞状を改めて見回した。(2010年9月号掲載) 


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松本浩治 :  
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