岩坂保さん (2022/11/05)
90歳を過ぎた今でも、現役で貿易業を営んでいる岩坂保さん(92、福岡県出身)は記憶力も良く、矍鑠(かくしゃく)としている。 中学卒業後、福岡県大牟田(おおむた)の海産物問屋で7年間、丁稚奉公として修行。戦後、自ら海鮮問屋を始めた。 渡伯のきっかけとなったのは、長兄がブラジル行きを望んでいたことだ。兄の代りに福岡県庁へと移民募集の話を聞きに行った時、渡航条件が良かったことが岩坂さんの心を掻(か)き立てた。募集は、ベレン郊外のコッケイロで野菜の自営業を行うこと。義務農年も無い上に25町歩の土地があり、旅費は10年払いでも構わず、道にはアスファルトが通り、電気も通っているという好条件だった。 すでに田鶴子夫人(2005年に死去)と結婚していた岩坂さんは、母親と田鶴子さんの弟、息子2人を合せた家族6人でブラジル行きを決意。渡伯に際しては、オート三輪車をはじめ、船外機、大型精米機、耕運機、脱穀機、籾摺(もみす)り機、搾油機など15トン分の荷物を準備していた。 しかし、54年12月、神戸を出航する2日前になって移民斡旋所の職員から、コッケイロ行きが決まっていた20家族の家長たちが呼ばれ、「コッケイロは土地も無く、家も立っていない」と説明された。一度は渡伯を断念しかけたが、職員からトメアスーでの3年間の義務農年と、ベルテーラでのゴム移民が1年間だけの義務農年という2つの選択条件を提示され、ベルテーラに行くことを決めた。54年12月に「ぶらじる丸」で神戸を出航。翌55年1月にベルテーラに入植した。 ベルテーラに入った岩坂さんだったが、結局、ゴムの採取は1日も行ったことが無かったという。他の移住者たちに自分たちの持ってきた品物を売ったりして、生活していた。 同年8月、ゴム移民たちは伯側から強制退去を命じられた。ベルテーラを退去するに際して岩坂さんは、自分たちで運送できない移民たちの荷物を、移住地から12キロ離れたピンドバウ港まで三輪車で何度となく運んでやり、自分たち家族は最後にベルテーラを出たという。 その後、高拓生など3家族でサンタレンの対岸にあるアレンケールに共同出資して土地を購入したが、労働者の経費を考えると、作物の収穫までに赤字になる。そう計算した岩坂さんは、56年2月にアレンケールの町に出て三輪車を利用し、運搬業や農産物の仲買業などを始めた。大牟田でやっていた海鮮問屋の商売経験が、ブラジルでも活きた。 その間、岩坂さんは商売に結びつくことは何でもやってきた。64年に禁猟となるまでは、野生動物の毛皮の卸商売も行い、豹(ひょう)、鹿、猪、山猫、ジャカレイ(ワニ)、スクリュー(大蛇)など「皮」と名の付くものはすべて扱った。特に豹の毛皮は、フランスを中心に輸出。高価な品として売れた。 野生動物・環境保護が叫ばれる現在では考えられないが、岩坂さんが所持している当時の写真には、自宅の庭で所狭しと置かれた天日干しされている豹皮の画像が写っていた。 その他にもブチジョン・ガスの元締めをしたり、「レガトン」と呼ばれる120トンの商売船をベレンとイタコアチアラの間を行き来させてきた。 「当時は恐ろしいものは無かった」という岩坂さんだが、「今の自分があるのは、たくさんの人たちにお世話になってきたから」と感謝の意を忘れてはいない。 アレンケールで37年間過ごした岩坂さんは92年、病気が原因となりベレンへと出てきた。肩が痛くなり、薬を飲んだが、その薬が身体に合わず、無理して仕事をしていたら胃に穴が開いたという。薬で身体は完治したが、元に戻るまで1年間は療養した。 その後、身体は完全に回復し、現在もタバコの香料になる「クマルー」という実をアレンケールから船で持って来て、フランスやドイツなどに卸している。以前は代理人がやっていたが、今はすべての交渉を1人で行っている。 「一番残念に思うことは、お世話になってきた人たちが亡くなったこと」と話す岩坂さんは、「仕事をやっていないとダメですね」と元気の秘訣を教えてくれた。(2010年10月号掲載)
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