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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
安中裕さん [画像を表示]

安中裕さん (2022/11/16)
2011年1月号安中裕さん.jpg
 パラナ州ロンドリーナ市内で、55年間にわたって写真館を経営した安中裕(やすなか・ゆたか)さん(84、北海道出身)。親から受け継いだ写真技術を駆使し、仕事とは別にロンドリーナの街並みや風景を撮影、記録を行ってきた。しかし、デジタル化の波が台頭する中、後継者もいないままに惜しまれながら、2007年12月末で歴史ある写真館を閉じている。
 1928年、家族とともに1歳で渡伯したが、ブラジル政府が発令した外国語禁止令などを憂慮した父・末次郎(すえじろう)さんが日本に戻ることを決意。39年に日本に引き揚げた裕さんは、北海道札幌の旧制中学校高等科を卒業した。その後、父親譲りの写真技術を生かし、町立病院でレントゲン写真技師として働いた。
 同病院の主任医師が衛生兵軍曹の経験があったため、父親の薦めもあり、45年3月、「札幌25連隊」に志願して入隊。1週間かけて樺太の上敷香(かみしすか)に出征し、同地の陸軍病院に派遣された。同年8月6日、豊原(とよはら)の野戦病院行きの命令が下り、同15日に現地入り。その日の午前10時頃に上司から「重大ニュース」があると呼ばれ、終戦になったことを聞かされた。
 その1週間後、終戦になっていたにもかかわらず、ソ連機2機が焼夷弾を落下して爆撃、豊原駅前の広場は死傷者が続出した。裕さんたちは目の前で起った惨劇に怒りながらも、病人の看護にあたるしかなかった。
 10月下旬、「日本に引揚げることができる」と喜んで樺太の大泊港から乗船した船はシベリアに向い、裕さんは約2千人の日本兵とともに抑留。収容所に連行された。
 スープとパンが朝夕2回だけという貧しい食事しか配給されない生活。1月には零下40度にもなる極寒の地では、体力の無い者から命を落としていった。そうした生活が約3年間続いた48年10月下旬、ナホトカ港から帰還。舞鶴港を経て北海道へと、ようやくの思いで故郷に戻ることができた。
 「日本に帰りたい一心で生き抜き、何年か振りで食べた『おにぎり』の味は今でも忘れられない」
 その後、偶然にも戦前に豊原に住んでいたという同郷の潤子さんと知り合い、51年に結婚。裕さんは生き延びたことで、幸せをつかむことができた。
 戦後の不景気もあり、家族からはブラジルに行きたいとの声が高まった。特に、裕さんの妹たちはブラジル生れで郷愁があり、当時パラナ州マリアルバに居た伯父の呼び寄せにより再渡航することに。51年12月、父親を家長に11人という大家族でオランダ船の「ルイス号」に乗船。横浜港を出航した。
 マリアルバで半年ほどコーヒー農園を手伝った裕さんは52年、ドイツ系ブラジル人がロンドリーナで経営していた写真館「フォト・エストレーラ」を手放すという話を聞いて、父とともに購入。ブラジルの地で、親子揃って写真館を営むことになった。
 裕さんはその間、仕事と並行してロンドリーナの街並みを精力的に写してきた。一つのきっかけは農場の撮影を依頼され、テコテコ(セスナ機)に乗って空撮を行ったことだった。
 そうした地道な貢献が認められ、2006年8月、市の協力を得て「歴史を明かす 写真館フォト・エストレーラの遺産」というタイトルの写真集が発刊された。同写真集は、30年代から70年代前後のロンドリーナの発展に焦点を当て、市内の風景や建物、カフェ生産状況など100枚近いモノクロ写真を収録している。
 しかし、その一方で伴侶の潤子さんが05年7月に73歳で病死。子供たちも今どきのデジタル化の波に押され、古い写真館を引き継ぐ考えはなかったという。半世紀以上も続いた店を閉めることに、寂しさを感じた裕さんだったが、どうしようもなかった。
 写真館閉店間際にその中を見せてもらうことができた。奥側の壁には、ドイツ系ブラジル人が写真館を所有していた時代からあったという撮影用の背景画があった。色褪せた背景画を見ながら、長年にわたって営まれてきた写真館の歴史の重さを感じた。
 一つの時代が終ったが、当時の写真群が次世代の人々の心を捉えていくことだろう。(2011年1月号掲載) 


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松本浩治 :  
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