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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
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嶋田敏子さん (2022/11/20)
2011年2月号嶋田敏子さん.jpg
 パラナ州アサイ市カビウナ地区で主に孫の面倒をみているという嶋田敏子さん(75)は、北パラナ日系社会の重鎮である嶋田巧(たくみ)さん(77、2世)の妻として、婦人活動などに尽力してきた。
 巧さんの従兄妹に当る敏子さんは、1932年に渡伯していた巧さんの父親・与平さんが50年代初頭に2回目の一時帰国をした際、長男の嫁にすることを目的に「ブラジルに来ないか」と薦められた。
 北海道空知(そらち)郡で篤農家の次女として育った敏子さんは、当時、高校1年生。兄弟が満州で苦労したことを伝え聞いていた敏子さんの父・吉太郎さんは、「娘を海外になど出したくない」との思いが強かった。
 しかし、55年、与平さんが3回目の訪日の時。「ブラジルに行っても何の苦労もさせない。10年経ったら、日本に遊びに帰すから」との条件で同年7月、当時では珍しい飛行機で敏子さんをブラジルに連れて行った。
 アサイ市のカビウナ区に住むことになった敏子さんは、すぐには結婚させてもらえず、畑仕事などを手伝わされた。
 「義父さんは『ブラジルに行っても足の裏に毛が生えるくらい何もすることはない』と言っていたのに、ブラジルに着いて1週間もしないうちにサパトン(ブーツ)を買って来て、仕事をさせられた」と敏子さん。「今から思えば、私がブラジルの生活に通用するか試されたのかもね」と笑う。
 「『女は外で働くもの』というのが義父さんの口癖だった」(敏子さん)ことで、毎日午前4時半には起こされ、夫と一緒にコーヒー畑に行く生活が続いた。
 「私は日本でわがままに育っていたので、その頃はコーヒーの大切さが分からず、『こんな山羊のフンのようなもの、何が大切なのか』と適当に扱っていたら、近くに居た義母さんがそれを見て、黙ってコーヒーを寄せ集めたの。それから、びっくりして、きっちりやるようになったのよ」
 同年の12月にようやく巧さんと結婚。独立した巧さんはその後、同地での農業生産の合間に地域活動に貢献した。地元カビウナ区長をはじめ、アサイの文化協会会長やパラナ日伯文化連合会の会長などの役職を20年以上にわたって務めてきた。
 一方の敏子さんは、旧コチア産業組合アサイ支部(現:インテグラーダ農協)の婦人部創立(79年)に尽力し、12年間にわたって婦人部長を務めたほか、カビウナ地区婦人部長やLACA(アサイ文化連合会)の初代婦人部長を歴任。各種イベントごとに食事づくりなどの協力をはじめ、生け花、カラオケ行事や日本への使節団として参加するなど、積極的に活動を続けてきた。
 また、セラード開発視察を婦人部長だった敏子さんが企画し、飛行機をチャーターして100人のメンバーを連れて行ったこともあり、その活動は広く認められていた。それだけに94年9月末にコチア産業組合中央会が崩壊したことは、敏子さんにとっても大きなショックだった。
 「コチア組合が潰れる3日前にサンパウロから役員が来て、婦人部で集めたお金を本部に送れと言ったので仕方なく送ったけれど、その後はそれっきり。その頃は本部の命令は絶対で、コチア組合が潰れるなんて教えてもくれなかったし、思いもしなかった。自分の生き甲斐みたいにしてやってきたけど、(コチア組合崩壊後は)本当にやる気がなくなった」と敏子さんは、当時の組合幹部のやり方に今でも疑問を感じている。
 農業と地域活動一筋にやってきた夫との間には、3男2女の子供ができた。現在、日本に出稼ぎに行っている3男がカビウナの土地を引継ぎ、使用人がサトウキビなどを生産。地元のアルコール工場に卸しているという。
 「楽しみは日本に行くことだけど、今は息子が帰ってくるまで我慢しなきゃね」と敏子さん。3男の子供たちの面倒を見ながら日々の暮らしを送っている。(2011年2月号掲載)

 


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松本浩治 :  
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