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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/04/22)
棈木幸一さん [画像を表示]

棈木幸一さん (2022/11/28)
2011年3月号棈木幸一さん.jpg
右手前が棈木さん
 ミナスジェライス州の州都ベロ・オリゾンテ市内に住んでいる棈木幸一(あべき・こういち)さん(75、鹿児島県出身)。本業のマッサージの仕事の傍ら、趣味の民謡と、自家用の味噌・しょう油作りを行うなど、今でも活発的な日々を送っている。
 2007年に同地の日伯文化協会主催の新年祝賀会に出席させてもらった際、恒例の餅つき、会員が一堂に会しての昼食の後、ほとんどの人たちがビンゴに興じている時、数人の仲間とともに尺八の練習を熱心に行っていた姿が印象的だった。
 棈木さんは、ブラジル郷土民謡協会(斉藤美恵会長)のミナス州支部長を11年にわたって務め、13人の支部員とともに稽古に励んでいる。
 故郷の鹿児島県姶良(あいら)郡で、元々は米作りなどをしていたという棈木さんは、同じ村出身の故・小倉辰美さんの呼び寄せにより渡伯。1960年2月15日に南伯のリオ・グランデ港に下船し、「バカリヤ」と呼ばれる耕地に入植、契約農として2年間働いた。
 その後、南リオ・グランデ州都であるポルトアレグレ近くのビアモンの友人のもとで農業生産をしたが、渡伯3年にして盲腸に罹り、そのことをきっかけに商業に転業したという。
 同地では、故・児玉完太郎氏に付いてフェイラ(朝市)から始め、共同でトマトを主体に柿などの果樹類も含めた卸し業を4年ほど続けた。67年頃に都市部から生産物を仕入れて販売するために、サンパウロに出て3年くらい買い送りをしていた。 
 新天地を求めた棈木さんは70年にセアザ(食糧配給センター)建設予定地などを見て周るため4日間、現在住んでいるベロ・オリゾンテ市内を視察。「その頃でベロ・オリゾンテの人口増加率が世界で2番目だったことと、何より気候に惚れてここに来たよね」と同地に移転し、72年頃のセアザ完成とともに市場に入り込み、最初から「鉄兜」の異名を取るカボチャを仕入れた。
 当時、カボチャの生産地はミナス州バルバセナやコルジスブルグなどが主で、日本人が細々と栽培していたという。棈木さんは、バイア州テイシェイラ・フレイタスやパラナ州カストロ、マリンガなど積極的に生産地を探しては仕入れを行い、南リオグランデ、マット・グロッソ、ブラジリアなど遠方地域にも販売を実施。5、6年後にはカボチャは10倍以上の消費量となるなど、「鉄兜の第一人者」として活動した。
 14年間休みもなく、寝る間も惜しんで働き続けてきた棈木さんは身体を壊し、セアザ関連の仕事を86年で辞めた。その後、一時は健康商品の販売などもしていたが、90年頃からは本格的にマッサージの仕事を始め、現在も継続している。
 「自分自身が身体が悪かったために、マッサージのことを知った時は『これだ!』と思った。カボチャをやっていた時は子供を連れて外に遊びに行ったことなどなく、夜中に家を出て、その日の夜にはまたカボチャのある場所に走るという生活をしていた」と語る棈木さん。現在は、マッサージを正業とする傍ら、自ら味噌やしょう油を手作りし、作ることの楽しみを実感しているという。
 民謡はベロ・オリゾンテに移った頃から好きで行い、10年ほど前から本格的に尺八を始めた。何事にも熱心に取り組む性格が奏功し、2007年8月には、サンパウロ市で開催された民謡全伯大会で宮崎県の「刈干し切唄(かりぼしきりうた)」を唄い、特別賞を獲得。同年10月に日本で行われた全国大会にブラジル代表として出場した経験を持つ。また、10年10月には、全伯大会で優勝したミナス州イパチンガ在住の小林和八(わはち)さん(77、群馬県出身)に同行して訪日し、小林さんとともに本部から民謡教師の免除を受けたという。
 マッサージ業をはじめ、民謡、味噌・しょう油作りと「三足の草鞋(わらじ)」を履く棈木さんは、多忙ながらも充実した日々を過ごしている。(2011年3月号掲載)


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松本浩治 :  
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