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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
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宮島兄夫さん (2022/12/03)
2011年4月号宮島兄夫さん.JPG
 「実際に鳥居が完成して、何とか出来たなという気持ちです」―。サンパウロ(聖)州ペレイラ・バレット市にあるACEP(ペレイラ・バレット文化体育協会)所有の総合運動場内に、2008年の入植80周年と移民100周年を記念して鳥居を制作した宮島兄夫(みやじま・しげお)さん(81、長野県出身)。同地では農業・牧畜業を行ってきたが、青年期に長野県で修行を積んだ大工仕事の腕前を買われ、節目の年の大役を果たした。
 1938年に両親、弟たちとともに7人家族で渡伯。聖州アリアンサに近いフォルモーザに入植したが、1年足らずで父親が風土病に罹り、死去。生活の手立てがなく、チエテ移住地(現:ペレイラ・バレット)に移り、長野県で製糸業の経験があった母親は、当時同地で栄えていたブラジル拓殖組合(ブラ拓)の製糸会社で、若い女工たちを指導することになった。
 しかし、それでも生活は苦しく、母親は長男の宮島さんと弟の2人の息子をブラ拓の重役が日本に帰る際、一緒に託した。本来は母親もその後、日本に帰る予定だったが、戦争により帰ることができず、生き別れの状態となった。
 長野県の義理の伯父のもとに預けられた宮島さんだが、「世話になるのは気が引けて、1日も早く働きたかった」という。14、5歳になった頃、手に職を付けるために長野県内で大工修行を行うことに。経験は無かったが、戦後東京で「焼け野原」を見ていた宮島さんは、当時から「大工になる」と決心していた。
 19歳頃に親方から勧められ、それまでの半農半職ではなく、名古屋で大工専門の仕事をするようになり、宮島さんは一人前の大工として活動することになった。
 その後、途絶えていたブラジルの母親と連絡が取れるようになり、再婚した母からブラジルに再度呼び寄せる話が来た際、宮島さんはかなり迷ったという。仕事は順調にいっていたし、「今さらブラジルで暮らせるのか」という不安もあった。
 迷った挙句、宮島さんは54年に「あふりか丸」で再渡航し、義父であるペレイラ・バレットの「山本農場」で働くことになった。
 農場では、牧畜を中心に農作業を行う傍ら、大工仕事で鍛えた腕で製材所の仕事などもこなし、「約25年ほどは、どこにも出ることなく農作業を続けた」という。
 80年代になり、当時のジャミック(現:JICA)の所長と親しくなった宮島さんは、ACEPの活動にも参加。世話役として努め、現在も同文化体育協会の顧問として協力している。
 2008年の入植80周年と移民100周年を記念して、常設盆踊り会場もあるACEP所有の総合運動場内に、記念の鳥居を制作する話が上がった時、大工仕事の腕を見込まれ、宮島さんに白羽の矢が立てられた。
 場内には、左官業の傍ら、趣味で苗作りや植樹をしていた故・藤田三郎さんの名前を冠した「ボスケ・サブロウ・フジタ」が88年の入植60周年の際に造られている。その場所の入り口付近に鳥居は建設され、宮島さんの判断で注文には無かった「辻灯籠」も合わせて造られた。
 鳥居の木材には、「鉄の木」の異名を取る「アルエイラ」の木が使われ、「100年はもつ」(宮島さん)という。鳥居は釘を一切使わず、木材を組み合わせて造られ、宮島さんは完成予定日に間に合わせるため、雨の中でも作業を続けた。
 「注文では、高さや材木の太さも決められていたので、全体にもう少し太ければという気もしましたが、まあ、何とか鳥居が完成して良かったなという気持ちです」と笑顔を見せる宮島さん。移民100周年を記念して、ブラジル各地に建てられた鳥居の一つとして、同地の名声を残している。(2011年4月号掲載) 


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松本浩治 :  
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