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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
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武部順子さん (2022/12/17)
2011年6月号武部順子さん.JPG
 サンパウロ近郊ビリチーバ・ミリンでラン栽培を行う武部順子さん(73)は、働き盛りの夫を亡くしてからも女手ひとつで2人の娘達の面倒をみてきた。順子さんの父親・繁さん(1967年、76歳で死去)は1919年、夫人の喜久栄さん、弟たちとともに29歳で渡伯。サンパウロ州コチア市でバタタ生産などをし、29年にはビリチーバ・ミリンに移転。同地先駆者の一人となっている。
 その後、事情により喜久栄さんは帰国。富山県で生まれた順子さんは、尼寺に住む繁さんの姉のもとに預けられた。高校まで富山県にいたが、大学進学のために東京へ。その頃、高校時代の先輩を通じて、後の夫となる斉藤恒雄さん(福島県出身)を紹介されていた。
 そうした中、戦争で音信が取れなかった父親から手紙が届き、何回か文通しているうち、順子さんは夏休みを利用してブラジルに遊びに行くことになった。戦前移民として成功していた繁さんが当時では破格の航空運賃を負担。順子さんは54年5月末、プロペラ機で72時間かけて初めてブラジルの土を踏んだ。
 当初、夏休み期間だけの滞在予定だったが、父親は「ここ(ブラジル)に残れ」という気持ちが強かった。また当時、サンパウロは市制400年記念行事の一環としてイビラプエラ公園内に日本館を建設中で、幼い頃から茶の湯を習っていた順子さんは、その手伝いとして記念イベントに参加。結局、55年3月までブラジルに居残った。
 一方の恒雄さんは、すでに就職が決まっていたにもかかわらず、海外雄飛に思いを馳せブラジルに行くことを決意。順子さんは日本で生活するつもりだったが、55年10月、恒雄さんが婿入りの形で結婚。その2か月後には、横浜港からブラジルに向けて出発していた。
 当時の「らぷらた丸」は貨客船で、一等船客のみ。アメリカ総領事や南米銀行関係者などわずか12人が同船しただけの優雅な旅だった。
 2人はサントスに迎えに来た父・繁さんとともにビリチーバ・ミリンへ。日本では農業経験がなく、順子さんは恒雄さんの大学時代の先輩がサンパウロで駐在員として来ていたことから、会社勤めを勧めた。しかし、恒雄さんは「サラリーマンをやるぐらいなら日本を出なかった」と農業にこだわり、順子さんも手伝わざるを得なかった。
 繁さんは58年に隠居し、自らサンパウロへと出た。その後の土地を2人は任され、見よう見真似でバタタ作りをはじめ、果樹栽培や養鶏なども行った。
 当時のビリチーバ・ミリンの日本人家族はわずかに10家族程度。60年前後に2人の娘も生まれ、周りの日本人父兄から日本語を教えてほしいと言われていた順子さん。その頃、会館も無かった環境の中、自分たちの土地のバラコン(倉庫)で日本語を教えるとともに、女子青年には生け花(池坊)も教授した。恒雄さんも青年たちに夜学で日本語を教えたり、コーラスや俳句も行うなど農業の合間に積極的に文化活動を実践した。
 71年にビリチーバ・ミリン婦人会が創立され、その8年後にはモジ文協傘下団体が集まり連合婦人会も設立された。順子さんは創立からの中心メンバーの一人として役員となり、83年からは通算で7年間、連合婦人会長も務めるなど地域活動に貢献してきた。
 75年から始めたラン栽培も軌道に乗り始め、これからという83年、恒雄さんが医療検査中に亡くなった。51歳という、まだ働き盛りの年齢だった。
 「夢中で農業や日本人会の仕事を夫婦でやってきて、夫婦揃って旅行に行ったこともなかった。60歳になったら一緒に旅行しましょうね、と話をしていたんですけれどね」と順子さんは、顔には出さないものの当時、相当のショックを受けたに違いない。
 「日本に帰りたいと思った頃もあったけれど、ブラジルは食べ物も豊かだし、気候も良く、何より気楽に暮せる魅力がある」と順子さん。今でも早朝から起きだし、現役でラン栽培の仕事を続けている。(2011年6月号掲載)


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松本浩治 :  
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