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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
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森田隆さん (2022/12/29)
2011年8月号森田隆さん.jpg
 1945年8月6日午前8時15分、世界で初めての原子爆弾が広島に投下された時の光景を、ブラジル被爆者平和協会(旧・在ブラジル原爆被爆者協会)会長の森田隆さん(87、広島市出身)は66年経過した今でも決して忘れることはできない。
 爆心地から1・3キロの地点で被爆した森田さんは一命は取りとめたものの、首から背中にかけて大火傷を負った。その後の治療で身体の傷は少しずつ回復したものの、心の傷は癒(いや)されることがない。さらに、在外被爆者の問題が追い打ちをかけた。
 「まだ我々の戦争は終わっていない。在外被爆者の問題が完全に解決できなければ、死んでも死に切れない」
 44年、当時21歳だった森田さんは浜松航空隊(静岡県)にいたが翌45年、憲兵隊に志願し、東京都中野の憲兵学校で半年間教育を受けた後、合格した。ちょうど東京大空襲の時に居合わせたために、焼夷弾(しょういだん)による空襲の悲惨さを嫌というほど見せつけられていた。
 憲兵学校を卒業し、故郷の広島行きを志願した森田さんは、原爆投下の1週間前に広島市に戻ってきていた。8月5日に同市内の基町(もとまち)にある西練兵所へ行った後、その1週間前に墜落した米軍のB29の搭乗員7人が捕虜となっていた。その時の米軍の装備は救命ボート、チョコレートなどの食糧のほか、衛生サック(コンドーム)まであったことに敵ながら感心したという。
 翌6日の運命の日、爆心地の西練兵所から市内西側の山腹の横穴に重要書類を運ぶため、森田さんは10人の副憲兵たちを連れて午前8時に出発した。その日は空襲警報もなく、平常のつもりで市民は安心しきっていた。
 「突然、ものすごい光がパァーッときた。爆音も聞こえず、何が起こったのかも分からず、真っ白い光だけが見えた。アッと思った時には15メートルくらい吹き飛ばされていた」
 不幸中の幸いだったのは爆心地に背を向けていたことと、鉄筋の壁にさえぎられたことで死に至る被害を受けなかったことだ。
 当初、空襲された思いはなく、火薬庫が爆発したのだと思った。約30分後にB29の爆音を上空に聞いて見上げると、ポツリポツリと「黒い雨」が落ちてきた。その時、森田さんは米軍が重油をまいて焼き殺すのかと思ったが、それこそが放射能を帯びた「黒い雨」だった。
 前方を見ると、50歳くらいの男性が歩いてきた。全身の皮膚が焼けたただれ、幽霊のような格好をしている手の先からは皮が地面近くまで垂れ下がっていた。それが被爆者を見た最初だった。しばらく行くと、周りには被爆した人々の助けを求める声ばかりが響いた。
 「『兵隊さん、敵(かたき)をとってくれ』という声が今でも忘れられない」
 午前9時半に山の横穴に到着した森田さんは、山腹から広島市内が灰色の炎に包まれているのを見て、初めて空襲を受けたと悟った。
 爆心地の様子を調べるために中心へと向かい、西練兵所に到着したのは正午だった。その時、応援に駆け付けた憲兵中佐から初めて原爆が投下されたことを聞かされた。
 相生(あいおい)橋(現在の原爆ドームのある場所)から元安(もとやす)川のへりを見ると、李グウ公(りぐうこう)殿下(=グウは金へんに偶のつくり、朝鮮の王族で当時第2総軍指令部付き教育参謀)が助けを求めて手を上げていた。重傷だった。李殿下を救助し、河口の宇品(うじな)にある病院まで元安川を下って行った際、川の両端には水を求めて息も絶え絶えになっている市民でぎっしりと埋まっていた。
 「殿下を守るためには市民をどうすることもできなかった。66年経った今でも、昨日のことのように覚えている」
 結局、李殿下はその翌日に亡くなったが、森田さんは市民を助けられなかったことに心を痛めてきた。
 妻子とともに56年にブラジルに渡った森田さんは84年、「在ブラジル原爆被爆者協会」を結成した。日本在住の被爆者と同等の権利を勝ち取るために活動する日々が続くが、在伯被爆者も高齢化が顕著になっている。日本に一時帰国して治療しようにも高齢のために行くことができず、ブラジルで亡くなった被爆者も少なくない。
 「日本から治療費(健康管理手当)をもらうより、何かあった時にブラジルでも安心して診てもらえる病院がほしい。日本の被爆者と同じ待遇にしていただきたい」
 森田さんの心からの願いだ。(2011年8月号掲載)


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松本浩治 :  
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