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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
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松本實隆さん (2023/01/04)
2011年9月号松本實隆さん.jpg
 米寿(88歳)を迎えた今も毎日のようにゲートボール場に通い、邦字新聞を読むこととタバコを吸うのが楽しみだという生活を送るサンパウロ市サン・マテウス区在住の松本實隆(さねたか)さん(沖縄県国頭郡大宣味村出身)。明るく、矍鑠(かくしゃく)としているが、戦後3年間、シベリアに抑留した経験がある。
 20歳でサヨ夫人(2005年に83歳で死去)と結婚し、沖縄県那覇で大工の仕事に従事していた松本さんは1944年1月、単身で満州に渡り、奉天省鞍山(あんざん)の昭和製鋼所に勤務することに。翌45年1月、22歳で現地召集され、被服や食糧を扱う補給部隊に所属した。中国東北部の「琿春(こんしゅん)」と呼ばれる場所だった。
 終戦とともにソ連軍が侵攻。松本さんたちは、貨物列車で1日かけて移動させられ、シベリア・ハバロフスクの「コモソモリスク18分所」の元ソ連兵舎に強制収容された。
 兵舎は板張りで、防寒のために隙間に「おがくず」が入れてあり、部屋にはペチカが置いてあったため、ある程度の寒さは凌げたが、外出する時の寒さが身にこたえた。
 松本さんが命令された強制労働は、大工仕事の腕を買われてソ連兵士の建物の床張りや、鍛冶作業などだった。鍛冶作業では、ソ連兵のハンマーなどを作ったりしたが、寒さのために手の甲は皸(あかぎれ)の状態が続いた。
 食べ物は、高粱(こうりゃん)を中心に固い黒パンが出たが、夏場は作業所に行く途中でジャガイモを見つけてポケットに入るだけ持って帰ったこともあった。また、道端にあったヨモギを採ってきてスープなどに入れて食したりもしたが、夜には白米が出されることもあったという。
 「特に辛かったのは、寒さと、食事が腹いっぱいに食べられなかったこと」と松本さん。「自分はその当時、年齢も若く、まだ体力もあったから生き延びることができたが、野菜不足のために夜になると鳥目(とりめ)で見えなくなる人もいた」と当時のことを振り返る。
 ある日の朝、鍛冶仕事をしていると現地人に呼ばれた。突然のことに戸惑ったが、それは思いもかけない帰国命令だった。「本当に帰れるのか」と疑ったが、「(京都府の)舞鶴港に着いた時には、何とも言えない気持ちだった」という。
 戦争で沖縄は「玉砕した」と聞いていたため、家族が生きているとは思っていなかった松本さんだが、舞鶴で20日間、さらに佐世保で40日間の滞在を経て2か月後に故郷に戻り、家族と再会することができた。
 その後、再び那覇で大工仕事をしていた松本さんは54年6月、ボリビアの「コロニア・オキナワ」移住地に第1次移民として入植するため、家族とともに海を渡った。
 さらに、72年には子供たちの将来を考慮してブラジルに移り、それ以後は現在のサン・マテウス区に住み続け、沖縄県人会同支部の老人会会長やゲートボール会長などを歴任してきた。特に、ゲートボールはプレイするのも得意で、仲間たちとゲームをした後のタバコの味はまた格別のようだ。
 3男4女の子供に恵まれ、孫、曾孫ともに22人ずつがいるという松本さんは、2010年10月から実施された日本政府の「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」(シベリア特措法)による一時金支給申請により、今年になってようやく特別給付金を受け取ることができた。このことについて、「もっと早くに出れば良かったが、生きているうちに貰(もら)えたことはありがたい。本来はロシアから補償があるべきだが」と話す。
 孫たちに囲まれて暮す松本さんはシベリアから生きて帰り、現在の幸せな生活があることを改めて実感している。(2011年9月号掲載) 


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