島田正市さん (2023/01/11)
「今日まで真面目にやってこれたのは、音楽のおかげだと思っている」―。こう話すのは、全国カラオケ指導協会ブラジル総本部長として、これまでに何千人という歌手の指導や作曲を行ってきた島田正市(しょういち)氏さん(75、埼玉県出身)だ。第2次世界大戦で戦災孤児となりながらも、好きな音楽を続けてきたことが島田さんを支えた。昨年(2010年)9月には、芸能生活60周年を記念した特別公演をサンパウロ市リベルダーデ区の文協大講堂で開催した。現在も数多くの生徒の指導を行うなど、現役で音楽活動を継続している。 4歳で養子となっていた島田さんは東京都亀戸で米軍の空襲を受け、養父母を亡くしている。その時の体験について「一番怖かったのは両親を亡くしたことよりも、焼夷(しょうい)弾で半生(はんなま)に焼けた人間がそこらじゅうに転がっており、その人たちをまたがないと先に進めないことだった」と振り返る。 戦災孤児として埼玉県内の「子供の町」という児童養護施設に預けられた。同施設は秩父宮妃殿下の母親だった松平信子氏が理事長を務め、島田さんは同施設が開館してから「2番目か3番目」に入居した1期生だった。苦しい生活の中、島田さんは13歳の時から独学でアコーディオンを弾き始め、作曲を行うようになっていた。 当時の日本は食糧事情も悪く、日本政府は戦災孤児をブラジルに移住させる案を持ち上げた。そのテストケースとして島田さんたち4人に白羽の矢が立った。「海外に出たいとの思いもあった」島田さんたちは1953年、「さんとす丸」で渡伯。15歳の時だった。同船は戦後移民初めての移民船で、ジュート栽培を目的にしたアマゾン移民も一緒だった。 サントス港に着いた島田さんたちだったが、ブラジル国内では行先も教えられていない。「船長室で(在サンパウロ日本国)総領事立ち会いの下、ブラジルの引き受け先に預けられました」 ブラジルでは、サンパウロ州ノロエステのグァイサラで「新田(にった)」という福島県出身の日本人の農場に入植。同地では主に、みかんの苗木を接ぎ木する作業を行い、4年半同地で過ごした。農業を手伝う傍ら、地域の子供たちを相手に歌を教えることが島田さんにとってのささやかな楽しみだった。 その後、つてを頼ってサンパウロ市に出た島田氏は、「ラジオ・クルツーラ」という日系のラジオ番組でアコーディオン弾きとして出演することになった。 「土曜日の夜は(サンパウロ市セントロ区)サン・ジョン通りで公開録音があってね」と当時を懐かしむ島田さん。しかし、それだけでは生活が苦しく、友人から誘われてナイトクラブ「長良(ながら)」の生バンドの一員として働くことになった。当時はまだカラオケがない時代。島田さんは客の好みに合わせてピアノで「有楽町で逢いましょう」など日本の歌謡曲などを演奏。その合間に歌の指導や作曲活動なども行ってきた。 トレゼ・デ・マイオ街にあった「弘加(ひろか)」やジャバクアラの有名料亭「青柳(あおやぎ)」でもバンド活動を行った島田さんに好機が訪れたのは31歳の時。18歳の時に作曲した『サンパウロ・ブルース』が、日本のコロムビア・レコード社から販売されてヒットした。 そのほか、商社マンの帰国前夜の思いを歌にした『リオデジャネイロの夜』、コロムビア社からポリドール社に移籍した日本の歌手・神戸(かんべ)一郎氏が歌った『恋のバイバイ』など名曲を次々に生み出した。 その一方、島田さんが30代の頃、日本の有名俳優の伴淳三郎(ばん・じゅんざぶろう)氏とも付き合いがあり、同氏の紹介で「ハワイに永住しないか」という話もあった。しかし、結局は永住権が取得できず実現はしなかった。 「50歳になるまでに夜の仕事は辞めよう」と思っていた島田さんは、以前から行っていた音楽教室に力を注ぐようになり、これまでに「数えきれないほど」(島田さん)の生徒を指導してきた。 最近では、2008年にブラジル日本移民100周年のテーマ曲にもなった『海を渡って100周年』を作曲したことは記憶に新しい。 現在、島田さんは全国カラオケ指導協会ブラジル総本部長として活動している。年2回の大会だけでも700人前後の歌い手が出場するほどの規模となっており、カラオケ・ブームは衰えるところを知らない。(2011年10月号掲載)
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