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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
奥田昭二さん [画像を表示]

奥田昭二さん (2023/01/17)
2011年11月号奥田昭二さん.jpg
 第2次世界大戦で大阪の街が大空襲を受けたのは、1945年3月13日のこと。米軍が焼夷弾(しょういだん)を落とし、大阪市内一帯は火の海と化した。空襲により両親と次姉の3人を亡くした奥田昭二(おくだ・しょうじ)さん(79歳、大阪市西区出身、サンパウロ市ジャバクアラ区在住)は、当時小学校6年生(12歳)。焼夷弾が落とされる1週間前、小学校の卒業式に出席するために一時的に集団疎開先の島根県から帰って来ていた。
 3月13日の夜、空襲警報とともに焼夷弾は落とされ、防空壕に入る間もなく逃げ道を塞がれ火に囲まれた。6人兄姉の末っ子(四男)である奥田さんは長姉と一緒に布団をかぶりながら防空壕のある道頓堀川方面へ命からがら逃げた。道は火の勢いが強くて通れず、ちょうど満ち潮で増水していた道頓堀川に首まで浸かりながら、ようやく防空壕までたどりついた。
 「ものすごい風と熱気で、家はぐるりと焼かれて逃げ道がなかった。私たちは何とか逃げることができたけど、20歳前後の若い人たちは火を消さないかんということで、多勢の人が亡くなった」
 翌日の昼近くまで防空壕に入っていたが、外に出て見ると辺り一面が焼け野原になっていた。2、3日後に近くの高台(たかきや)小学校で両親と次姉の遺体を確認し、父親の歯を「お骨」代わりに家族の遺影を持って、奈良県の親戚の家に姉兄4人で行った。
 しかし、戦争下の非常事態の中、食糧も不足しており、喜んでは受け入れてもらえなかった。半年ごとに大阪と奈良を転々とした。戦後苦しかったのは、まともな食糧がなかったことだ。
 「お米なんかは滅多になかった。アメリカからの救援物質の配給で『ナンバ粉』と言っていたトウモロコシの粉があったけど、団子にしても食べられず、一番まだ食べられたのは雑炊やったね。田舎の人はサツマイモや時期の食べ物なんかを持っていたけど、お金だけでは売ってくれんかったよ」
 当時、難波(なんぱ)や鶴橋(つるはし)の駅前では闇市があり何でも買えたが、金があればの話だった。
 奥田さんはその後、大阪市福島区の中央卸売り市場のすぐ裏手にあったという「蒲鉾(かまぼこ)屋」で2、3年働いた後、メリヤス(織物)工場にも勤務した。父母が生前、呉服屋をしていたことからミシンの扱いは手慣れたもので、「子供の頃からおもちゃ代わりにして遊んでいた」(奥田さん)ほどだったという。
 そうした生活が続いた中、1958年に転機が訪れた。戦前移民としてプラジルで暮していた長兄の勇さん(90年代に70歳前後で死去)からの呼び寄せにより、扇子(せんす)を製作する技術者として25歳の時に「チチャレンガ号」で単身神戸港を出航した。勇さんは大阪の商業学校を卒業後、「海外商業実習生」として渡伯し、サンパウロ市の「蜂谷商会」で働いた経験を持っていた。扇子など作ったことがなかった奥田さんだが、長兄の夫人のつてで京都の知人に職人としての証明書を作ってもらい、表面的には「工業移住者」の肩書きでブラジルに渡ったという。
 渡伯当初は、サンパウロ市ジャバクアラ区でおもちゃ工場を経営していた長兄の世話になっていた奥田さんは、友人の口利きでフェイランテ(青空市場)業を16年間にわたって行った。その頃、知人の紹介によりセイさん(2世)と結婚し、3人の子供に恵まれた。フェイランテでは儲けが少ないこともあり、ミシンを2台購入して日本にいた時から得意だった縫製作業も請け負った。
 80年代には、親戚の紹介でコシーニャ作りを行うようになり、「美味しい」との評判で日本食品店などにも卸したりしていた。家族だけでは賄えないため従業員を雇い、奥田さんは従業員が出勤する前に毎日午前5時半に起きて、ジャガイモを洗って湯がくなどの下準備をする必要があった。90年代には子供たちが日本に出稼ぎに行って資金を貯め、自宅にあるコシーニャの工場を拡張することもできた。コシーニャ作りは約30年にわたって継続してきたが、今年(2011年)5月に長年連れ添った夫人のセイさんが76歳で亡くなったこともあり、奥田さんは自分の仕事に区切りをつけた。
 「日本におっても仕方ないとブラジルに来たけど、金を儲けるわけでもなく、そうかと言って困りもせんかった」とブラジルでの生活を振り返る奥田さん。「それでも子供や孫たちにはいつも良くしてもらい、ブラジルでは暢気(のんき)に生活できてるけどね」と家族への感謝の気持ちを表す。
 現在の奥田さんの楽しみは、10年ぶり3回目となる訪日だ。大阪府と兵庫県の県境に今年90歳になるという長姉が住んでおり、この11月に久々の再会が実現する。
 「皮肉なもんで、家内が生きていたら(看病のためにこの時期には)日本には行けんかったけど、これも何かの巡り合わせかな」
 セイさんが亡くなって以来、沈んでいたという奥田さんの表情が和らいだ。(2011年11月号掲載) 


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松本浩治 :  
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