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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
杉本正さん [画像を表示]

杉本正さん (2023/01/24)
2011年12月号杉本正さん.jpg
 スザノ福博(ふくはく)村で現在、草分け的存在となっている杉本正(すぎもと・まさし)さん(94、北海道出身)。入植当時のことを知る数少ない一人だ。同村会の顧問とともに、サンパウロ市にあるブラジル日系老人クラブ連合会の相談役も務め、寄り合いがあるごとに足しげく通うほど元気だ。
 1931年2月13日に家族とともにブラジルに渡った杉本さんは、サンパウロ州ノロエステ線のカフェランジアを経て、同年11月18日に福博村に入植。当時、15歳の血気盛んな青年だった。
 杉本さんが所持していた資料によると、福博村の初期にはレンガを買う資金がないとして、そのほとんどの家族は泥壁の家に住み、その周辺には再生林が広がっていたという。
 一獲千金を夢見た人々はトマト、バタタ(ジャガイモ)を生産し、杉本さん家族も比較的資金がかからなくてすむトマト生産を中心に、野菜づくりやエンドウなどの雑作も行った。
 「父親はたまに所用でサンパウロに行く場合は夜中の2時、3時に起きてスザノの駅まで歩いて行っていました。弟たちも学校がスザノにあるので当時は皆、片道8キロある道のりを歩いて通っていました。ブラジル人はすべて裸足で治安が良く、今では考えられない平穏な時代でしたよ」
 入植5年目にして、父親の馬治(うまじ)さんが作業中に毒蛇の被害に遭い、死去。入植以来初めての犠牲者で、葬儀には村人全員が集まった。当時は交通の便も悪く、スザノには医者がいなかった。サンパウロまで医者を呼びに行ったが、着いた時にはすでに手遅れの状態だった。
 一家の大黒柱を失い杉本さんは、がむしゃらに働くしかなかった。一緒にブラジルに来た従兄弟は日本に帰ったが、杉本さんは「自分は生涯農業をやっていく」と福博村で骨を埋める決意を固めた。日本で農業の経験はなかったが、「どうしても(農業を)やっていかなければ」という気持ちが技術を向上させた。
 ただ、当時の日系社会ではブラジル時報、日伯新聞、聖州新報などの邦字紙が盛んな時代で、父親が日本から大手新聞を取り寄せていたこともあり、杉本さんにとってはそれほど苦労したという思いはなかったようだ。
 現在の福博村という名前は、その時代の土地の所有者であったロベルト・ビアンキ氏から植民地づくりを請け負った初代入植者の故・原田敬太(はらだ・けいた)氏が名付けたとされているが、その前身として1932年に日本人同士の親睦を目的につくられた「日曜会」と、その翌年の33年8月27日に改称された「恵比寿(えびす)会」の存在があったという。
 杉本さんの父親・馬治さんは「恵比寿会」の専務理事を担当するなど、少なからず初期の福博村の発展に貢献してきた。33年6月18日、移民25周年に合わせて青年会も発足。その年にちなんで「二十五青年会」と名付けられた。
 「かつては我々の親たちが日本で青年会を作っていて、若い世代が自主的に作ったのでなく、親父たちが『おまえらが発会しろ』ということで、作られました」
 青年会では「大地」という会報も発行されたが、それらの活動資金を得るために周辺地域の土地の開墾を青年会で請け負ったり、日本から配給される映画の前売り券を配ったりと「苦しいながらも充実した時代だった」と杉本さんは当時を振り返る。
 青年会の創立会員は今となっては杉本さん一人となり、福博村の歴史を知る人もだんだんと少なくなってきた。
 「日本人がスザノに入ったおかげで、今のブラジルの農業がある。農業生産の発展が商業にも及んだ」と強調する杉本さん。だが、一方で現在では、日本人が築き上げてきた農業も福博村では成り立ちにくくなっている。
 「子供たちが農業をしなければ、最終的には福博村には年寄りが残るだけ」
 時代の変遷に伴い、日系社会と同様、問題が山積みされている村の現状を杉本さんは、じっと見つめている。(2011年12月号掲載) 


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松本浩治 :  
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