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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/02/19)
吉泉美和子さん [画像を表示]

吉泉美和子さん (2023/02/02)
2012年1月号吉泉美和子さん.JPG
 コチア青年花嫁移民として1960年5月18日に渡伯(サントス着)、今年で52年目を迎える吉泉美和子(よしいずみ・みわこ)さん(71、山形県出身)は、1次1回生としてその5年前にブラジルの土を踏んでいた夫・秀三(しゅうぞう)さん(故人)のもとに嫁いだ。
 7人兄姉の末っ子として生まれ、庄内平野の米どころの農家で育った美和子さんは、子供の頃から苗運びなどを手伝わされ、中学校時代から「外に出たい」との思いに駆られていたという。兄嫁の弟が漁業関係の仕事でチリに渡っていたことも美和子さんの気持ちを刺激した。
 鶴岡市内の県立高校(家政科)を卒業前、県議会議員の南米調査団の講演会があり、一人で聴きに行った。その後、家族に内緒で留守家族会に入り、研修会に出席した際に秀三さんの母親に出会ったことが美和子さんの人生を変えた。
 次の週には秀三さんの父母と顔を合わせ、ブラジルに行く話が進んでいたという。この話を聞いた家族は猛反対したが、「怒られると、余計に意地を張っちゃってね」と美和子さんは59年の9月には吉泉家に籍を入れ、翌60年3月30日、横浜港を出航した。まだ18歳の若さだった。
 「それまで主人とは手紙でやり取りしたり、写真も送ってもらっていましたが、サントス港に着いて最初に会った時は瞬間的に『すごく痩せている人だな』と思いました。当時は心に火が点いたようになっていたんでしょうね。その後の話で、『相手より、ブラジルにまず来たかった』と話すと、『えっ、俺に惚れて来たんじゃなかったのか』と主人に怒られましたよ」と美和子さんは当時を思い出して笑う。
 秀三さんは、サンパウロ市近郊のサンベルナルド・ド・カンポ市に住んでいたパトロン、吉本ヤスオさん(故人)の農場で働いた後、サンパウロ(聖)州プレジデンテ・プルデンテなどを経て、インダイアツーバから約10キロの距離にあるサルト市で他のコチア青年たちとともにトマトの歩合作を行った。
 その後、62年からはトマトの一大生産地と言われたインダイアツーバに移った。70年半ばにはコチア産業組合がトマト生産団地を聖州ボツカツに設立。87年にはミナス・ジェライス州ツルボランジアにも土地を購入し、吉泉夫妻は三つの地域を生産拠点にしながら動き回っていた。
 「とにかく、走っている時間が多かったです」
 88年頃には秀三さんがコチア組合中央会の監査役でもあったため、さらに目まぐるしい日々が続いた。その頃、ツルボランジアではトマトに変わる永年作物として柿の生産普及が行われていた。「果樹になって収入は減りましたが、(投機作物の)トマトづくりをしなくなって安心した面も正直ありました」と美和子さんは本音を漏らす。
 経済的に苦しい時代となり、日本への出稼ぎ者も増えるようになった。
 「借金を返すために私たちも出稼ぎに行きたいという気持ちはありましたが、誰かが土地を守らなければならないとも思いました」
 そうした折、97年に秀三さんが膀胱ガンで亡くなった。「私が忘れていても、結婚記念日や誕生日を覚えていてくれる夫でした」
 大黒柱を失い、日本で農業研修を行った長男のレナットさん(41歳、2世)が引き継ぐ考えもあったようだが、「自分の本当にやりたい造園業の仕事を行いたい」(レナットさん)と、それまで担っていた農業生産活動を止めた。
 しかし、昨年6月からレナットさんが柿やアテモヤなどの果物づくりをツルボランジアで行うようになり、現在、美和子さんも週の半分は同地に住み、息子の生産活動を手伝っている。ADESC(農協婦人部連合会)の会長職も6年ほど前に経験し、今も仲間たちとともに同連合会を引っ張る存在の美和子さん。ツルボランジア、インダイアツーバ、サンパウロを行ったり来たりする慌しい生活が再び戻ってきた。
 「(ツルボランジアの)畑に出ていると街にいるより開放感があり、いい気分になりますね。これからは楽しみながらやっていきたいと思っています」と話す美和子さんは、生き生きとした表情をしていた。(2012年1月号掲載)  


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松本浩治 :  
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